第10章 Mの幸福(1) 空港

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第10章 Mの幸福(1) 空港

 気づいたのはアリスが先だった。  たちまち不快そうな顔になり、派手にぷいとそっぽを向く。  不審に思い、彼女が見ていた方向に目をやれば、そこにあの男が立っていた。 「ガイ」  一目見て、美しいと思う。もう三十五になったはずのこの男は、いまだに初めて会った二十四の頃の面影を克明に留めている。  コンテストのときはタキシード姿だったが、今は普段どおりの服装に白いハーフコートを羽織っていた。寒さには強いこの男も、さすがに冬の空港ロビーをコートなしで歩くのは無理だったようだ。 「ずいぶん早いご帰還だな」  そう言って、正木凱はウォーンライトの前に立った。 「そうか。千代子に訊いたんだね。そう、もう日本に用はないからね。ところで、僕とはもう二度と話さないんじゃなかったのかい?」 「俺に話しかけるなと言ったんだ。こっちから話すのはいい」  平然とそんなことを言う。ウォーンライトは呆れたが、すぐに笑ってしまった。この男にはかなわない。 『あなた、嫌いだわ』  唐突にアリスが米語で言った。 『いつもヘンリーを苦しめる』  赤いダッフルコートを着た彼女は、ウォーンライトのトレンチコートを握りしめ、下から正木を憎々しげにねめつけていた。  正木はようやっとアリスの存在に気づいたような顔をすると、いきなり上半身を屈めて彼女の鼻先に自分の顔を近づけた。 「俺も嫌い。おまえがまだヘンリーをたらしこめてないから」  しっかり日本語でそう言って、正木は嘲るように笑いながら身を起こした。  アリスは青い目をこれ以上はないくらい大きく見張り、怒りに身を震わせたかと思うと――人間ならば顔も紅潮していただろうが、アリスはそこまで精巧にできていなかった――身を翻して歩きはじめた。 『お、おい! アリス! どこに行くんだ!』  あわててウォーンライトは彼女を呼び止めた。 『適当に座って待ってるわ! お話が終わったら迎えにきて!』  アリスは振り返ってそう叫び返すと、頭の赤いビロードのリボンを揺らしながら、つかつかと歩いていった。 「傑作ーっ!」  正木は腹を抱えてひーひー笑った。この男にはひどく意地の悪いところがある。 「ガイ、君はアリスをからかいにきたのかい? 彼女は一度へそを曲げると、なかなか機嫌を直してくれないんだよ」  嘆息してそう言うと、正木は笑いながら上目使いでウォーンライトを見た。 「おまえ、相変わらず甘やかしてんなー。あいつの兄貴か父親を気どってんのか? あいつはそれを望んでないのかもしれないのに?」  ウォーンライトは眉をひそめた。 「どういうことだい?」 「本人に訊いてみろよ」  そっけなく答えて、正木は両手を挙げてみせた。 「おまえとアリスの問題だ。そこまで面倒見る気ない」 「君が作ったプログラムじゃないか」  あまりに無責任な正木の態度に、ウォーンライトは思わずなじったが。 「育てたのはおまえだ。あれはそういうプログラム。〝桜〟のプロトだ」  正木はそう切って捨てた。 「〝夕夜〟ではないんだね」  ウォーンライトの口元に苦い笑みが浮かぶ。 「夕夜君に聞いた。彼はあの〝白紙〟のプログラムだったそうだね。君はアリスのときには三日であきらめて、すぐに今のプログラムに書き替えてしまったのに、夕夜君のときには三ヶ月も待ったんだね」  責めるようなウォーンライトの口調に、正木はやや辛そうな顔になった。が、はっきりこう言った。 「アリスじゃ無理だったと思う」 「なぜ?」 「おまえは若林じゃなかった」  ウォーンライトは一瞬呆然とし――そして、泣き笑いに近い笑みを浮かべて自分の額に手をやった。 「ひどいな。あんなところを見せつけておいて、まだ僕にそんなことを言うのかい? だいたい、若林はどうしたんだ? こんなところで僕と会っていていいのかい?」 「若林なら車乗って駐車場にいるよ。ついでに言えば夕夜と美奈も。ほんとは俺一人で来ようとしたんだけど、若林が車貸してくんなくてさ。夕夜と美奈は何だか知んないけどくっついてきた。信用ねえんだ、俺は」  すねたように正木は答えたが、ウォーンライトが手をどかして見ると、コートのポケットに両手を突っこんで、照れくさそうにうつむいていた。  ウォーンライトはまた苦笑したが、今度は目は覆わなかった。 「悔しいけど、今の君は本当に幸せそうだ。君は本当に若林が好きなんだね。昔、〝桜〟が発表されたときにも、君はそんな顔をしていた。君は若林の隣で、誇らしげに彼を見ていたっけ。――あれでもうわかっていたはずなのに、いったい僕は何をしにわざわざこの日本までやってきたのかな。何だか僕は君にとてつもないクリスマス・プレゼントを贈ってしまったような気がするよ。でも、あえて言うよ。――おめでとう、ガイ」 「お、おめでとうって別に……!」  正木はうろたえて赤くなったが、ふと考えるように天井を見ると、はにかむような笑顔になった。 「ま、いいや。ありがとよ。でも、俺はアリスをからかいにきたわけでも、おまえにのろけを聞かせにきたわけでもないんだ。今、おまえが自分で言った、〝何をしにきたのか〟っていうのに関係する話をしにきた」 「へえ? それはぜひ聴かせてもらいたいね」  本心からウォーンライトはそう言った。  彼が正木に惹かれたのは、その容姿や才能、性格だけでなく、彼が一風変わった哲学の持ち主だったからでもあった。  たとえば、正木は自分の死んだ母親が成せなかったことを代わりに成すという業を生まれながらに背負っているのだという。母親そっくりの顔がその証拠だが、女ではなく男に生まれてしまったのは、母親が女であることを拒否したせいだそうである。  では、母親が成せなかったこととは何だと問うと、正木は恥ずかしそうに笑って、教えてやらないと答えた。結局、その答えは聞かせてもらえないまま別れてしまったが――いや、別れられてしまったのだが――今日という日を迎えて、何となくわかった気がする。  ――好きな男と結婚して、幸福な家庭を築くこと。  正木は、私生児だ。 「とりあえず、先に結論言っちまうわ」  正木はそう前置きして言った。 「俺と若林は、たぶん夕夜と美奈を()()()()()」 「誰に!」  驚いてウォーンライトは声を上げた。  それに対して、正木はすました顔で肩をそびやかした。 「さあ、誰だかな。とりあえず、神様とでもしとくか。とにかくそいつが様々な偶然を仕掛けて、俺たちに夕夜と美奈を作らせた。美奈なんか、まさに偶然の産物じゃないか。俺にはもうロボットを作るつもりは全然なかったのに、ああしてちゃんと出来ちまった。まったく、本当によくできている。今だからよくわかる。たとえば――のろけだと思うかもしれないが、ここは我慢して聞いてくれ――若林がああいう俺好みの(つら)してるのも、今となっては俺を惹きつけるためのエサなんじゃないかという気がする。  とにかく、あらゆる要素、あらゆる要因が、俺たちに夕夜と美奈を作らせた。そして、やっと美奈ができたから、今度は褒美がわりに俺に若林をくれてやった。そんな感じだ。――いや、きっとこのことも、次の何かのための布石なんだろう。それが何なのか俺にはさっぱりわからんが、とにかくまあ、そんな話だ。十七年もおあずけ食らってたから、こんな被害妄想じみたことを考えちまうんじゃないかと思ったりもするんだけどな。あんまり見事につながるんで、考えずにはいられない。でも、うちの奴らには言いにくいから、とりあえずおまえに話しに来た。それで――」  正木は急に言葉に詰まって、顔を下に向けた。 「しょうがねえんだよ。どうしようもねえんだ。俺が夕夜と美奈を一緒に作る相手は、おまえじゃなくて若林だった。――勘弁してくれ」  そうだったのかとウォーンライトは思った。  自分のことなどもう気にも留めていないとばかり思っていたのに、正木は自分を選べなかったことをすまないと思っていて、わざわざ謝りにきてくれたのか。  でも、こう言うことをされると、嬉しい反面、憎みたくもなる。  下手に謝るくらいなら、もう自分のことなど見向きもしないでほしい。ずっと冷たいままでいてほしい。今回、自分がしたことは、非難されてしかるべきものなのだから。  こうして謝られると、逆に自分が惨めになる。そんな運命論を持ち出してまで若林との仲の正当性を主張したいのかと、また正木を責めたくなる。短い間ではあったけれど、かつてはこの腕の中で甘い吐息を漏らしていたこともあったのに。  本当に、正木はある日突然、彼の前に現れて、一目で彼を虜にし、あっというまに驚異的なプログラムを作り上げ、そしてまたある日突然、去っていってしまった。  まるで疾風。まるで嵐。強烈すぎて、鮮やかすぎた。  その後はしばらく何も手につかなくて、新しい恋人を作る気にもなれなかった。  慰めといえば、正木が残してくれたプログラム、〝アリス〟だけ。  だが、同じ自分のプログラムでも、正木は夕夜と美奈ほどにはアリスを愛そうとはしない。  彼が認めた〝子供〟は夕夜と美奈だけ。若林と作った二人だけ。 「君を責めるつもりはまったくないよ」  しかし、ウォーンライトはそう言った。 「君がそう言うのなら、きっとそうなんだろう。すると、僕はやはり、君に若林をプレゼントするサンタクロース役を仰せつかったことになるのかな。それはそれで光栄なことだよ。本当はもっと別の役がしたかったけどね」 「ヘンリー……」  正木が後ろめたそうに眉根を寄せる。それを見てからウォーンライトはしまったと思った。  自分はもう正木をあきらめなければならないのだ。本当はもう十年前にそうしていなければならなかった。  でも――あきらめきれなかった。  そう千代子に言うと、彼女は舌打ちしながら人差指を振ってみせた。  ――甘いわね。あんたなんかまだまだ序の口よ。あんたがあきらめきれないって言ってるその男は、もう十七年も同じ一人の男を追いかけてる。何度も何度もあきらめようあきらめようって言いながら、結局あきらめきれなくて、やっぱりその男を追いかけてる。でも、この男は臆病者だから、追われたら追われた分だけ逃げていっちまうの。それでまた正木は苦しむのよ。  馬鹿よねー。ほんっとにあの男は馬鹿よねー。もういいかげんあきらめて、あんたあたりで妥協しとけばいいのにね。でも、あの男はきっと、一生かかってもあきらめないわ。あきらめよう、あきらめようって言いながら、やっぱりあの男を追いかけていくのよ。  あんた、こんな男をずっと追いかけていく根性ある? あの男を――若林をあきらめさせて、自分に振り向かせる自信がある? ――私はないわ。とっくの昔にあきらめた。だから、正木の〝親友〟になったのよ。  でも、あんたなんかにこの座は絶対渡さない。あんたは一時(いっとき)だけでもいい思いをさせてもらった。おまけに〝アリス〟もある。慰謝料には充分すぎるんじゃないの? 「すまない。君を責めないと言ったばかりなのに、またこんなことを言ってしまって」  激しい自己嫌悪に陥りながらウォーンライトは言った。  だが、これだけ。これだけは最後に言わせてほしい。――千代子。君もこう言いたいんじゃないのかい? 「でも、なれるものなら、僕が君にとっての〝若林〟になりたかった。本当に……なりたかった。言ってもどうしようもないことだけど、それが本心だ」  正木はやはり後ろめたそうにうつむいていた。  意地悪だなとウォーンライトは自分で自分のことを思った。  自分にとって正木が唯一であるように、正木にとっても若林が唯一だったのだ。それを知っていながら、こうしてまた正木を責める。どこまでいっても、自分は若林の身代わりにしかすぎないのに。 「さて。そろそろ行かないと、うちのお嬢さんがもっとへそを曲げてしまうな。名残惜しいけど、僕はこれで失礼するよ。これ以上話していたら、君に恨み言ばかり言ってしまいそうだからね」  正木がはっと顔を上げる。美しすぎる、かつての恋人。  その顔に、ウォーンライトはそっと微笑みかけた。  もしも十六年前、若林より先に出会えていたら――プロポーズすることができていたら、おまえは自分のものになっただろうか?  ――無意味だ。無意味な仮定だ。若林は自分より先に正木と出会い、自分より先に彼にプロポーズしてしまった。何もかもが遅すぎた。ようやく自分の前に現れた正木は、すでに若林のものだった。  あんな勝負などする前に、若林はもう正木を手に入れていた。十六年も前に勝利していた。ただそのことに気づいていなかっただけなのだ。そして、だから正木は現れた。この自分の前に。 「でも、僕は君と出会ったことはまったく後悔していない。むしろ、感謝している。それに、君は僕に〝アリス〟をくれた。――とにかく、ガイ。おめでとう。そして、元気で。君の〝家族〟にも、よろしく伝えておいてくれ」 「〝家族〟? ――叔父貴か?」  正木は眉をひそめて首をかしげた。どうやら正木にはその自覚はないようだ。  何となくほっとして(我ながら女々しい)、ウォーンライトは笑みをこぼした。 「夕夜君にそう言えばわかる。どこにいても、僕は君の幸福を祈っているよ。――もっとも、君にとっては余計なお世話かもしれないけどね」  うっかりそう言ってしまってから、ウォーンライトは今度は自嘲の笑みを浮かべた。  もう皮肉は言わないつもりだったのに、ついついまた口を滑らせてしまった。いいかげん、自分もあきらめが悪い。相手はもう完全に見こみがないとわかっているのに。  正木もさすがにうんざりしたような顔をしていたが、観念したように溜め息をつくと、春の日差しのような優しい微笑を見せた。 「おまえもな。遠くを見る前に近くを見ろよ。案外そこに幸福が転がってるかもしれん」  ウォーンライトは思わず苦笑した。 「それは僕に対する皮肉かい?」 「いーや」  おどけたように正木が眉を吊り上げてみせる。 「心づくしの忠告だよ」 「心しておくよ。――ああ、そうだ、ガイ」  足元に置いてあったトランクを持ち上げかけて、ウォーンライトは急に正木を振り返った。 「ん?」  正木が反射的に顔を上げる。その隙をついて、かつて幾度も重ねたその唇をそっとかすめとった。  驚いて目を丸くしている正木に満足して、にやりと笑う。 「餞別にもらっていくよ。じゃ、メリー・クリスマス」  そう言って、ウォーンライトは片手を挙げ、人気のない通路を足早に歩いていった。  その後ろ姿をあっけにとられて見送ってから、正木はふと自分の唇を指で拭った。 「体だけの関係なら考えてもいいんだけどな」  指先を見つめながら、かなり本気で呟いてみる。  だが、すぐに思い直して踵を返した。  きっと、そうなったらそうなったで、またあの頃と同じことを自分は考えるに違いないのだ。  若林をあきらめるつもりであの男を選んでおきながら、この腕が、胸が、唇が、若林のものであったらいいのに――と。
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