第1章 Mの災難(3) 家路・若林宅

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第1章 Mの災難(3) 家路・若林宅

 ――さて。  ちょうど帰宅ラッシュで込んでいる電車に乗りこんで、夕夜は考えた。  今日の目的――クリスマス・パーティ参加の約束をとりつけること――は何とか果たしたが、これから起こるであろう事態をどう切り抜けるか。  若林が出張中というのは、もちろん真っ赤な嘘である。誰かと飲みにいくことも滅多にない若林――そもそも彼は下戸(げこ)なのだ――は、用事がなければ帰宅時間も早い。おそらく、今日はもう帰ってきているに違いない。  それでもなお、あんな嘘を堂々とついてしまったのは、何としてでも正木をうちに連れていきたかったからだ。あの火事はもちろん偶然で、夕夜が起こしたものではなかったが(いくら何でもそれくらいの常識は夕夜にもある)、渡りに舟と思ってしまったことは事実だった。  だが、あの条件はやはりまずかったかもしれない。周囲には常に沈着で思慮深く思われている夕夜だが、実は単に豪胆なだけで、あとは行きあたりばったりである。さすがに正木は〝親〟なだけあって、そんな夕夜の本質をよく見抜いているが、今回はあの条件に惑わされて、夕夜の言うことを信じたようだ。  しかし、若林が家にいることを知っているもう一体のロボット美奈は、先ほどからどうする気なのよと言いたげに、何度もちらりちらりと夕夜の顔を見ている。  本来なら二人だけできちんと相談したいところだが、正木が一緒にいるので、うかつには話せない。ただでさえ異常に勘のいい正木のことだ、正木から離れて二人だけで話していれば、それだけで怪しんで、最悪の場合、途中でどこかのホテルなり旅館なりに泊まってしまうかもしれない。これが若林ならもっと簡単に騙す――もとい、話を進めることができるのだが。 (まあ、言ってしまったことはしょうがない)  正木以上に前向きな夕夜は思った。 (あれー、帰ってきてたんですかー、とでも言ってごまかそう! とにかく連れてきてしまえばこっちのものだ。あとは野となれ山となれ、だ)  電車に乗る前も乗った後も、正木は難しい顔をしたまま何も言わなかった。  本当は薄々感づいているのかもしれない。それとも、若林のことでも思い出しているのだろうか。 (そんなに嫌かな)  あの鈍感が。  だが、本当のところ、そういう鈍感な人間にやきもきしている自分が嫌なのかもしれない。勘のいい正木には、まさに二重の苦しみだろう。  だが、若林には正木が自分に対していらいらしていることだけがわかるので、ますます正木との対応にとまどうというわけだ。まさに悲劇(喜劇?)的である。  ――だからこそ、自分が何とかしなければ。  そう夕夜は思いつづけている。  自分が若林のことを言えば言うほど、正木の反発が強くなることもわかってはいるが、それはつまり、まだ正木が若林にこだわっているということでもある。  若林が半ば自分は正木に嫌われているんだと思いこんでいる以上、正木のほうを何とかする以外に問題打破の道はないのである。  夕夜がこうまでして二人の仲をとりもとうとするわけは、二人が夕夜を生み出した、いうなれば〝両親〟であるからだった。  〝子供〟の心理として、やはり両親には一緒にいて仲よくしていてほしい。これは美奈も同じだ。  いちばん手っとり早いのは、二人に直接そう訴えることだが、正木あたりにロボットと人間を一緒にするなと言われるのが目に見えているので、やむなくこうした地道な活動(と夕夜は思っている)をしているというわけだった。  電車から降りて駅を出ると、正木は夕夜たちの案内なしに、まっすぐ若林の家に向かって歩いていった。  ちゃんと覚えているのである。  そのことが妙に嬉しくて、夕夜と美奈は顔を見合わせて笑ったが、それに正木が気がついて、いかにも不愉快そうに眉をひそめた。 「何だよ?」 「いえ、何でもないです」  あわてて夕夜は言った。  ここまで来て逃げられたら元も子もない。正木を家の中に入れるまでは、一秒たりとも気は抜けないのだ。  夕夜はふと、自分たちが人さらいであるかのような錯覚を覚えた。 「本当にいねえだろうな」  突然、ぼそっと正木が言った。 「もちろんですよ」  夕夜の面の皮の厚さは、すでに専売特許の域に達している。 「そうじゃなきゃ、こんなこと言ったりしません」 「……いつからあいつは出張に出てる?」  ――来たな。  夕夜は思った。そのうちこういう質問をされるだろうことは予想していたのだ。 「今日からです」  自然に夕夜は答えた。 「詳しくは訊かなかったんですが、関西のほうのロボ研に招待されたようですよ」 「ふうん……」  正木はやや納得した気色を見せた。  これは口から出まかせというわけでもなく、つい先日もあったことである。  若林ほど有名になると、ちょくちょく他からお呼びがかかった。その際にはぜひ夕夜や美奈も連れてきてくれるようにと毎回のように言われたが、これだけは若林は断固として拒んだ。いわく、あの二人は見世物ではない。私の子供も同然である。  それから三人は何とはなしに黙りこみ、結局、そのまま若林の家の前まで歩きつづけた。  正木は下を向いて、何事か考えている様子だった。そんな正木を横目で見ながら、夕夜と美奈は、これから彼を強引に押しきって、家の中へと連れこむ覚悟を決めていた。これだけは絶対失敗は許されない。正木との面会権がかかっている。  若林の家は住宅街のはずれの奥まったところにある。一戸建ての二階家で、かなり大きい。車はあるが、若林はいつも電車で大学まで通っていた。  そして今、その車は車庫に入っており、家の窓には明かりが灯っていた。  しかし、これらは今、若林が家にいるという証拠にはならない。出張のときには自分の車を使ったりしないし、若林の家は外が暗くなったら勝手に明かりがつくようにセットしていくことができる。  このことは正木も知っている。だから、やっぱり騙したなと怒鳴りはしなかったが、少し不審そうに形のよい眉をひそめていた。 「じゃ、開けますね」  そう言って、夕夜は玄関灯の淡い光の下で、鍵を使って玄関を解錠した。  保安のため、若林家では在宅中でも必ず玄関の鍵はかけている。カードと暗証番号を使う電子ロックもあるのだが、そちらは面倒くさいという理由で放置されていた。ただし、若林の作業室のロックだけは金庫並みに厳重である。 (どうか博士がいきなり玄関に来たりしませんように!)  ドアを開けながら、夕夜と美奈は必死でそう願っていた。  たたきには若林の靴があった。  やはり、帰ってきている。  それを正木が目敏く見つけ、今度は明らかに不審そうな表情になった。 「あ、じゃあ、上がってください」  内心生きた心地がしなかったが(とロボットでも言っていいのなら)、作りなれたにこやかな笑顔で夕夜は言った。 「すぐに夕飯を用意しますから……」  言いながら、一瞬美奈に目を向ける。それを合図に、美奈はすばやく玄関の鍵を閉めた。  ――まず、第一段階は成功した。  そう、夕夜と美奈がひそかに溜め息をついたときだった。  奥のほうから、人がやってくる気配がした。 (来た! ついに来た!)  夕夜と美奈に戦慄が走った。  若林はわざわざ玄関まで二人を出迎えにくることはなかったが、今日のように少し帰りが遅くなったりすると、ここで小言めいたことを言うことがあった。〝ちょっと気弱なお父さん〟というのが、二人の若林に対する共通イメージである。 「てめえ! やっぱ騙し……!」  そう叫んだが早いか、正木は玄関の鍵を開けて飛び出していこうとしたが、それを美奈がドアの前に立って必死で阻止した。  その間、夕夜は電車の中にいたときからずっと頭の中でシミュレーションしつづけてきたセリフを、もう一度復唱した。 (えーと、〝あ、博士、もう帰ってきてたんですか、予定よりも早かったんですね〟……とりあえずはこれでいいな)  しかし、夕夜は若林がいつもどおりの若林であることを前提としてシミュレーションを重ねていた。  無理もない。いくら夕夜が優秀でも、その日若林に何が起こったかなど、千里眼でもなければわかるはずがないのだ。 「遅いッ!」  思いきり不機嫌な若林の声がした。  おや、と夕夜と美奈はもちろん、正木までもがきょとんとした顔をした。  正木とは違い、若林は温厚である。優柔不断ともいう。よほどのことがないかぎり、夕夜たちにさえ怒ったことがない。逆に怒られているときのほうが多い。それが今、こんな声を上げている…… (まさか――)  夕夜に別の恐怖が生じたそのとき、ついに若林が玄関先にその姿を現した。 「おまえら……また正木に会って――」  まだワイシャツ姿の若林は缶ビールを持ったままそう言いかけたが、そこに夕夜と美奈以外の人間を認めて、数秒黙った。  正木は美奈を押しのける手を止めて、若林を見上げた。  顔だけならやっぱりいい男だという思いがちらりと頭をかすめたが、同時にこの先の展開が見えたような気がして、身動きがとれなかった。  これでも若林とは大学のときからのつきあいである。その間にはいろいろなことがあった。今と同じような状況もあった。すなわち、若林が酒を飲んでいる―― 「正木?」  ここにいるのがいかにも信じられないというように、若林は首をかしげた。 「そうだよ」  身構えて正木は答えた。来る。たぶん来る。その隙に、夕夜は急いで美奈を正木から引き離した。 「正木……」  自分に言いきかせるように呟いた、その次の瞬間には若林は缶ビールを放り出し、まるでラグビーのタックルがごとく飛びかかるようにして正木に抱きついてきた。その勢いで正木は玄関ドアに後頭部をぶつけ、軽く顔をしかめた。 「正木ーッ! 会いたかったーッ!」  だが、若林はそんなことには頓着せず、力いっぱい正木を抱きしめてくる。  正木も決して背は低くないし、華奢でもないのだが、こういう状態のときの若林の力は尋常ではない。  もっとも、正木にはこの腕から逃れようという気は全然なかったので、かえってその痛みや息苦しさを楽しんでもいた。――人には絶対言えないことだが。  美奈はあっけにとられたように、そんな若林を見ていた。会いたかったと叫んで正木に抱きつくなど、普段の若林なら死んでもできないような芸当だ。しかし、正木と夕夜はその原因を知っていた。 「飲めないくせに、飲むんじゃねえよ……」  若林の力強い腕の中で、これを素面(しらふ)でやってくれたらどんなにいいかしれないのにと思いながら正木は言った。  ――若林は、酒癖が悪かった。
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