第2章 Wの悲劇(1) 若林宅

1/1
前へ
/30ページ
次へ

第2章 Wの悲劇(1) 若林宅

「二日酔いはないか?」  若林に飯をよそってやりながら――その光景を若林たちは何か恐ろしいもののように感じていた――ふと正木が訊ねてきた。 「――悪かった」  具体的に何をしたかはまったく覚えていなかったが、とりあえず若林は謝った。彼には正木が自分の酒癖の悪さを遠回しに責めているようにしか聞こえなかったのだ。 「そんなことはどうでもいい。おまえの酒癖の悪さはよーく知ってる。俺はおまえが二日酔いかどうかって訊いたんだ」  一方、正木のほうはというと、ただ純粋に若林の体調を知りたかっただけだった。それでもし二日酔いなら、もっと消化のよいものを作ってやろうかな、などというようなことまで考えていたのである。  このどこまでもすれ違いつづける原因はいったいどちらのほうにあるのだろう。夕夜は半ば呆れた溜め息をひそかについた。 「いや、別に何ともないが……」  また怒らせてしまったかと思い、びくびくしながら若林は答えた。  だが、若林のこういうところが正木の癇に障っているのだから、悪循環きわまりない。しかし、少しは正木も学習してきた。 「ならよかった。じゃ、食えるな」  そう言って、黙々と食べはじめたのである。  何か言わなくちゃまずいかなと若林は思ったが、とっさには何も思いつかず、結局、彼も黙って箸を口に運んだ。 「ちょっとー、これ、まずいんじゃないのー?」  夕夜をリビングまで引っ張っていって、そっと美奈が耳打ちした。 「うーん。僕も予想はしてたけどね。でもまー、今までずっとこんな調子だったから」 「最悪ーッ!」  呆れ返ったように美奈は言った。彼女はあの二人の関係の難しさをまだいまいち理解していない。 「あの……な」  ちらちらと正木を見ていた若林が、ついに覚悟を決めたように声をかけてきた。 「何だよ」  つい、そっけなくなってしまう。期待させて突き落とすのは若林の得意技だ。 「その……」  だが、今の若林にはそんな正木の態度に気づいてたじろげる余裕もないらしく、眉間に深い縦皺を寄せて正木の顔を覗きこんできた。 「本当のところ、俺、おまえに何かしたのか。昨日」  そう来るとは思わなかった。  珍しく、正木は返答に窮した。  昨日の記憶はまったく残っていないらしい若林は、あくまでも真剣な表情で正木をじっと見つめている。 (無理やり俺を襲って、いくとこまでいっちまったって言ったらこいつ、どんな顔するかな)  そんなことも考えてみたが、事実は夕夜も美奈も知っている。ここでそんなことを言ったが最後、一生二人に冷やかされかねない。 「だったらおまえ、そもそも何で飲めない酒なんか飲んでたんだ?」  そういえば、まだその理由を訊いていなかったと思い出して、正木は逆にそう切り返した。 「何でって……うーん、とにかく昨日の記憶が、いっさいがっさい、抜け落ちちまってて……」  唸りながら、若林は箸を持った手を額に当てて顔をしかめた。 「珍しいな。おまえがそんなこと言うなんて。何かよっぽど嫌なことがあったんだな」  何の気なしにそう言って正木は飯を口に入れたのだが、若林は突然がばっと顔を上げて叫んだ。 「そうだッ!」 「な、何だよ、いきなり」  正木はもちろん、夕夜も美奈も驚いて、若林に目を向けた。  若林はかまわず叫びつづける。 「そうだそうだ、思い出した! 俺、ケンカ売られたんだったッ!」 「……はぁーっ?」  若林を除いた一同は、異口同音にそう漏らし、困惑して互いの顔を見合わせた。 「最初から、順を追って話してくれ」  いち早く、正木は我を取り戻した。  必要とあれば、正木も夕夜なみに冷静になれるのだ。 「順を追ってって……そうだな、昨日の昼……十一時くらい……だったかな。俺はちょうど自分の研究室にいたんだけど、外から電話がかかってきたんだよ」 「ふんふん。それで?」 「ああ、その電話ってのが、なんとあのヘンリー・ウォーンライトからだったんだ」 「……何?」  一拍おいて、正木は若林を見た。 「ウォーンライトって……あの?」 「そう、あのウォーンライト」  正木は渋い顔になって額に手をやった。  ヘンリー・ウォーンライト。何だか、ものすごーく嫌な予感がする。 「それで、そのウォーンライトは、おまえに何て言ってきたんだ?」 「ああ、実はいま日本に来てるから、これからちょっと会えないかって」 「えッ! あいつ、こっちに来てるのかッ!?」  これには正木も我を忘れて絶叫してしまった。  常にない正木の驚きぶりに、若林たちのほうが驚いている。 「ねえねえ。私、わかんないんだけど」  今まで黙って事の成り行きを見守っていた美奈が、突然口を挟んできた。  ちなみに、彼女は今、夕夜とともに再びテーブルについている。  美奈は正木の隣。夕夜は若林の隣。別に決めたわけではない。自然にそうなっていたのである。  美奈は怪訝そうに眉をひそめてこう言った。 「そのウォーンライトとかいう人、いったい何者なの?」  うっ、と正木が言葉を失ったとき。 「ロボット工学者だよ。アメリカのデボラ社っていうロボットメーカーにいる」  間髪を入れず、夕夜が簡潔にして無難な説明をしてくれた。  さすが夕夜。ナイス・フォローだ。 「あ、じゃあ、若ちゃんと同じね」  合点がいったように美奈はぽんと手を叩いた。  〝若ちゃんたち〟とあえて複数形にしなかったところに、正木は何らかの作為を感じずにはいられなかった。 「それでおまえ……そのウォーンライトと……会ったのか?」  つい声が小さくなってしまう。 「ああ。大学前の喫茶店で」 「それで……何て?」  若林は正木好みの顔を盛大にしかめて言った。 「ロボット勝負してくれとさ」  しばらく、しんとした。 「何で?」  間の抜けた声で正木が問い返した。 「それは……まあ……俺が最近そんなことをしていたから……」  これにはなぜか若林は赤くなって言葉を濁してしまった。  いつもの正木ならそれだけでは納得しなかっただろうが、あのウォーンライトが日本に来ている――そのうえ、自分の知らないところで若林と会っていた――と聞いて、すっかり動揺してしまっていた。正木とて人の子なのである。 「ロボット勝負って……またコンテストにでも出すのか?」  すでにもう二度もあったことだ。いいかげん正木もうんざりしていた。 「ああ。しかも、またスリー・アールの。当然、また〝飛び入り〟だ……」  言っているうちに、若林自身も情けなくなってきてしまったらしい。深い溜め息をつきながら、頭を抱えこんでしまった。 「それでおまえ、またそんな勝負を受けたのか?」  若林の落ちこみように、正木はわかっていながらもそう訊いた。 「今度のは、絶対断れなかったんだ」  顔を伏せたまま、若林はぼそりと答えた。 「何で? そんなことして、おまえにどんなメリットがあるんだ? ――いや、あいつ、勝ったら何するって言った? まさか……」 「――俺の口からは言えない」  顔を上げはしたが、若林は正木と目を合わせなかった。 「コンテストのある二十四日の朝まで、日本の知人の家に泊まっているそうだから、早いうち本人と直接話してくれ。電話番号はっと……」  そう言って、背広の内ポケットから手帳を取り出そうとしたときだった。 「必要ない」  冷然と正木は言い放った。 「必要ないって……」 「そんな馬鹿げたことを言う奴と話す口なんかない」  正木はいよいよむかむかしてきて、頬杖をつき、そっぽを向いた。 「そんな、子供みたいな……」  困ったように笑いながら、手帳を取り出して開き、それを隣の夕夜に見せる。夕夜は手近にあったメモ用紙にボールペンでそれを書き写した。 「どっちが子供みたいだよ。ロボット勝負だー? 小学生のケンカじゃないんだぞ? 馬鹿馬鹿しくって涙が出らー」  ふてくされて正木は言った。 「だいたいおまえ、勝負を受けたはいいが、何出すつもりだよ? 二十四日っていったら、もう二週間もないぞ。まさか、今から新しいの作ろうってんじゃないだろうな?」 「いくら俺だって、そんな勝負は受けないよ。それについては向こうが指定してきた。――夕夜を出せってさ」 「夕夜?」  全員の目が夕夜に集中する。  その中で、夕夜はゆっくりと瞬きをした。 「また私ですか?」 「ああ。美奈は正木の手が入っているから駄目だそうだ。あくまでも〝俺〟と勝負したいってことらしい。――でも、そんなこと言ったって、夕夜のほうが目一杯入ってるのにな。世間的には夕夜は俺一人で作ったことになってるから……こういうとき、俺は自分が詐欺師みたいで後ろめたくなるよ」 「だから、ビールかっくらってたのか」  婉曲に自分を責めているように感じて、正木は若林を睨んだ。  夕夜を若林一人で作ったことにしたのは、若林にそんな罪悪感を与えるためではない。ただ純粋に若林を有名にしてやりたかっただけだ。  それでも、もしあのとき若林が、それでは駄目だ、ちゃんと本当のことを言おうと言ってくれたなら、正木も異を唱えたりはしなかっただろう。むしろ喜んだはずだ。  ところが、若林は困ったことに、正木の言うことにはほとんど無条件に従ってしまうような男だった。  それに、このときは共同製作の条件として、そんなことを言っていた。これはあとで作戦ミスだったと後悔した。そんなことを言われたら、若林でなくともなかなか反対はできまい。  しかし、それを破って本当のことを言おうという勇気、それが欲しいと正木は思っていた。まったくもって勝手な男である。  一方、正木がそんなことを考えているとは夢にも知らない若林は、決まりが悪くなって頬をかいていたが、そういえば昨夜酔っぱらった自分が正木に何をしたのかまだ聞いていなかったことを思い出し、それを訊ねようと口を開きかけた。 「ところで……若林」  そんな若林に気づかないまま、正木は壁に掛かっている時計を見た。 「おまえ、今日は大学のほうはいいのか?」 「え?」  正木の視線を追って、若林も時計を見た。  ――新たな恐怖が彼を襲った。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

32人が本棚に入れています
本棚に追加