第2章 Wの悲劇(2) 回想(1)

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第2章 Wの悲劇(2) 回想(1)

 若林修人は堅実な性格である。  と、当人と周囲(夕夜、美奈、ならびに正木を除く)は思っている。  仕事は必ず期日までに上げるし、講義はいつも時間ぴったりに始め、時間ぴったりに終わらせる。  この点、正木は非常にルーズで、満足のいく仕事ができなければいくらでも締切を破り、逆に期限前に仕事が完成してしまえば、さっさとそれを手放した。また、講義が時間どおりに始まったことは皆無に等しく、気が向かないという理由だけでしょっちゅう休講にした。  それでいて、正木は点が辛いことでも有名で、出来が悪ければ、即、落とした。出席は面倒くさいという理由からとっていないので、学生はもう課題と試験だけで勝負するしかない。  そんな正木だが、学生には絶大な人気を誇っていた。何しろ、K大理工学部ロボット工学科の学生の半分は正木目当てと言われたほどである。講義の回数も時間も少なかったが、それは本当に基礎的で重要なことだけを絞りこんでやっていたからで、決して手抜きをしていたわけではなかった。  だが、学生にファンクラブまでも作らせた、その人気の理由の大半は、正木の講義ではなく、顔であろう。ちなみに、ロボット工学科の学生の九割は男性である。  正木は写真嫌いで、その著書にも自分の写真を掲げたことがなかったから、キャンパス内でひそかに正木を盗み撮りし、その生写真を高値で売ってボロ儲けした、不謹慎な学生が出たこともあった。  ゆえに、今年の三月、突然正木がK大を辞したときの学生の嘆きたるや、異常なものがあった。  その過剰な人気と本人の意向から、研究室を持たなかった正木だが、非公認ファンクラブが中心となって、大学側に正木辞職の理由を問いただし(それはほとんど大学側が強引に正木を辞めさせたと決めつけているかのようだった)、正木には辞めないでくださいという手紙を山ほど出した(そして、それらはすべて若林に預けられた)。  しかし、そんな学生たちの願いも空しく、正木は復職しなかった。  近頃は彼らも正木のいないK大に慣れてきたようだが、今でもふとしたときに〝正木先生がいればなあ〟と溜め息まじりに言うことがある。それは若林も同感だった。  正木と私的な話をすることは今でも面映くて苦手だけれど、仕事の上では正木ほど信頼のおける人間はいなかった。正木の指示やアドバイスはいつだって的確で正しかったし、たとえ不完全なデータやプログラムを渡されたとしても、彼はそれを完璧に補正できた。  正木と初めて一緒に仕事をしたのは、まだ博士課程のとき、恩師の下で〝桜〟を試作したときだった。  それはその当時、まだ海外でも不完全にしか成功していなかった、自律型の人間型ロボットを作るという野心的な試みで、今はもう故人である斎藤教授が中心となって推進された。研究グループには主に斎藤教授の教え子たちが集められ、その中に若林と正木もいた。  もちろん、それ以前から正木のことは知っていた。それこそ、K大の入学式のときから。  しかし、初対面でとりかえしのつかない発言をしてしまった(と思いつづけている)若林は、以来正木に対して妙に身構えるようになってしまい、事務的なこと以外はまともに話せなくなっていた。  ところが、斎藤教授は何を思ったか、そんな若林に正木と共同で〝桜〟の設計をするよう命じたのである。それを聞いたとき若林は頭から一気に血の気が引いていくような心地がした。  とにかく、恩師にそう命じられたからには実行しなければならない。とは言うものの、最初のうちは挨拶の言葉を交わすだけでもその倍以上の間が必要で、自分が正木を苦手としていることは誰もが知っていることなのに、どうしてよりにもよって正木と組ませたりするんだと斎藤教授を恨みたくなった。  正木は学生の時分から天才と言われ、また天才にありがちな奔放さとその冴えた美貌から、周囲からは敬遠されがちな存在だった。  ゆえに、若林もいつ正木が気まぐれを起こして、やーめたと言い出すかと恐れて、あるいは期待していたのだが、若林と二人きりになると正木は意外なほどおとなしく、いつだったか、学生に難解な質問をして答えられないと罵倒する教授を逆に質問ぜめにして再起不能にしただとか、早く昼飯が食べたいからという理由で五分で書いた答案が最高得点をとっただとか、そんな数々の伝説が信じられないほどだった。  だが、それは若林に対する正木なりの遠慮だったのだ。そして、あの正木がそういつまでも猫を被っていられるはずがなかった。  その日、若林はなりゆきで、正木と学生食堂で昼食をとっていた。  会話はなかった。無理に話して間があくと、余計気まずくなるからだ。ただ二人して、黙々と食べつづけていた。 「お、昼飯か? 余裕だな」  突然、そんな声をかけられた。  横を見ると、同じ博士課程だが〝桜〟計画からは漏れた男が、笑顔に皮肉をにじませて若林を覗きこんでいた。  この男は正木の熱狂的な信奉者の一人で、〝桜〟計画に参加できなかったこともさることながら、自分よりさして優秀とは思われない若林(とこの男だけは思っていた)が選ばれて、あまつさえ正木と組んで仕事をしていることに、大きな不満を抱いていた。  人に対してあまり好き嫌いのない若林ではあったが、このときはまずいなと苦々しく思っていた。今は目の前に正木がいる。この男は容易には立ち去ってくれないだろう。 「で、調子はどうだ? もうだいぶ進んだんだろう? 何しろ〝優秀な〟人間ばかりが集まってるんだからな」  案の定、男はしばらく居座るつもりのようだ。なまじ爽やかな、テニスのインストラクターでもしたほうが似合いの顔をしているだけに、この下手な嫌味はことさら不快に感じられる。  しかし、若林はそれにカッとなれるほどこの男を評価していなかったので、いかにも困ったような表情を作ってこう答えた。 「いや、やっぱり難しくて、なかなか進まないな」 「へえ、おまえでもやっぱり難しいか」  男はさも当然と言わんばかりに冷笑した。まるで自分だったら難しくなかったのにとでも言いたげである。若林は早くこの場を立ち去りたかったが、まだエビフライ定食は半分以上残っていた。ここで席を立ったら不自然である。  若林の向かいでは、正木が男を完全に無視してカツ丼を食べつづけていた。  男のほうも正木が自分に関心を持っていないことはよくわかっているようで、若林だけに話しかけてくる。 「俺もあの計画には参加したかったのに、残念だなあ」  すでに何度も聞かされたことを、男はこのときもまた繰り返した。 「やっぱ研究室が斎藤先生じゃなかったからかなあ。教え子は有利だよなあ」  若林は内心あきあきしていたが、わざわざ面倒を起こすのもそれこそ面倒だったので、そんなことはないだろうなどと言ってごまかすつもりだった。  だが、若林がそう言う前に、誰かがズバッと切り捨てた。 「おまえがバカだからだ」 「え?」  若林も男も、声がしたほうを見た。  正木が相変わらず黙々とカツ丼を食べていた。  あれは幻聴だったのかと二人が思いはじめたとき、正木は目はカツ丼に向けたまま、独り言のように言った。 「おまえが選ばれなかったのはおまえがバカだからで、研究室がどうとかじゃねえよ」  男はもちろん驚いただろうが、若林はもっと驚いた。  実は正木はそのときまで、ですます体とまではいかなくとも、わりと丁寧な言葉遣いをしていたのである。つまり、外見に見合った話し方をしていたわけだ。  それがいきなりべらんめえ調で話し出したのである。若林は正木が知らぬ間に別人になってしまったのかと思った。 「さっきから聞いてりゃつまんねえことぐだぐだ言いやがって。んなことはこいつじゃなくて、斎藤の親父にでも言いやがれ。ったく、だからてめえは選から漏れたんだよ。それがわかったらとっとと行け。ただでさえまずい飯が余計まずくなる」  若林たちは言葉もなかった。  周りで食事をしていた学生たちも、いつのまにか正木に注目している。  正木だけが、変わらずカツ丼を食べていた。  憧れの正木にまともに嫌われたことにようやく気がついた男は、顔を真っ赤にした。周囲の好奇の目に怯えたように身をすくめると、そのまま走って食堂を出ていってしまった。  その様子を見て、若林はついその男が気の毒になった。確かに正木の言うとおりだが、もっと言いようというものがあったのではないか。ちなみにこの男、その後K大を辞めてしまい、噂では今本当にテニスのインストラクターをしているそうである。  正木は終始一貫、カツ丼を食べつづけていた。  そんな正木を学生たちはあっけにとられたように見ていたが、彼にまったく変化がないので、やがて飽きて目を離した。まさにそのときを待っていたかのように、正木は急に若林のほうに顔を近づけてきて、小声で囁くように「すまなかったな」と言った。 「これが俺の地なんだ。やっぱり地は出ちまうな」  少し照れくさそうに正木は笑い、その顔を隠すように額に手をやった。  若林はあっけにとられて正木を見た。あの正木が謝り、おまけに照れている。その衝撃が強すぎて、どうして正木が地を出してしまったのか、そのきっかけを忘れてしまった。  しかし、自分には言えない本音をためらうことなく口にできる正木は、若林にはひどく羨ましく、好ましく思えた。 「それが地なら、無理に隠すことはなかったのに」  ごく自然に若林はそう言っていた。  正木は何を言われたのかわからないように目を見張った。  それを見て若林は何だか自分がとても恥ずかしいことを言ってしまったような気がしてきて、あわててつけくわえた。 「いや、その、そのほうが正木らしいんじゃないかと思ったから……悪い意味じゃなくてっ」 「……そうか」  はにかむように正木は笑った。  可愛らしい、子供みたいな笑顔だった。
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