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「あきのたの」 「このたびは」 「ひとはいさ」 「めぐりあひて」 「ひともをし」 「はるすぎて」 「はなのいろは」 電車の中で札をめくりながら次々と読み上げていく。正確に言うとこれは決まり字ではないが、歌を覚えている最中の俺にはこれが精いっぱい。決まり字のような謎の言葉はとても頭に入らない。 それでも、「よう覚えたね。もう20枚やん」、と彼女が舌を巻くから、俺は嬉しくなって胸を張った。 「だから、これくらい余裕やって言ったやろ」 「でもここからが難しいねんで。これまで覚えた句と混ざってしまうし」 彼女は俺の手から札を受け取ると、何故か巾着の中に片づけ始めた。 「ほな、この辺でやめとこか」 「なんでやねん。全部覚えな、かるたはできひんのやろ」 「札をこの20枚だけに絞れば、とりあえずの勝負はできるし、それに…」 彼女は言いにくそうに少々口ごもった。 「耳の検査結果が先週出てん」 「そっか」 俺は何気なさを装った口調で言ったが、それでも自分の顔がこわばるのを感じた。 「どうやったん?」 「それが、なんともなかってん」 「え?」 駄目だ。俺の耳まで悪くなったらしい。今、何と言った? 「えーっと、ちゃうねん。やっぱり左耳の方はどうしようも無いねんて」 彼女は言い繕うように、早口でまくしたてた。 「遺伝によるもんなのか原因は分からへんかったし、分かったところでどうせ治されへんから、そのまま。ただ、右耳はどこもおかしくないねんて」 「せやけど、実際のところ聞こえにくいんやろ」 「それが、その…先週もう一回検査してな、ピーって鳴ったらボタンを押す、普通の聴力検査やねんけど、そしたら聴力が戻っててん」 「どういうことなん。中耳炎と、あとはなんとか難聴ってのしか治らへんって…」 「私のは心因性難聴なんやって。原因はストレスらしいんやけど」 「ストレス?」 「耳はちゃんと聞いているのに、頭の中が聞くのを拒否している状況らしいわ」 本当に、毎度毎度のことながら、彼女の話は難しすぎる。頭が拒否ってナニ?? 「耳が音を受け取って、それを頭が音として理解した時に初めて『聞こえる』、という状況になるんやけど、私は頭の方が悪かったみたい」 眠らせて、頭が拒否しない状況を作った検査だと聴力に何ら問題が無かったそうだ。それは心因性難聴の特徴らしい。 しかも彼女の場合、その心因性難聴も知らぬうちに改善していた。
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