02 - りりり、とか細い音を

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02 - りりり、とか細い音を

 りりり、とか細い音を奏でていた虫が、夜道を近づいてくる動物の気配にぱたりと羽擦れをやめた。  あとには遠くかすかに聞こえる木々のざわめきがあるだけだ。  その夜道を草をかきわけながら進んできた馬は、手綱を引かれゆっくり立ちどまった。  綱をにぎるアイディーンはふりかえって、後を歩く連れの馬が遅れていないか確かめると、あたりをうめつくす黒々とした森を見まわした。  そよぐほどにもふかない風のなさが、闇を澱ませて身体にまとわりつくような息苦しさを感じさせる。  そういえば今夜は月や星の光さえもひどくおぼろげで、明かり代わりにするにも方角をみるにも頼りがいがない。  「大丈夫か」  アイディーンはもう一度ふりかえると今度は口にだして問うた。  「はい」  彼の返事が否のはずがないのは、初対面以来の頑なさからわかりきったことだった。  それでもくりかえし問うのは、彼を気遣っているという気持ちを形にしたいからだ。  アイディーンは追いついた馬がそばで歩をとめるまでその様子を見ていた。  「この先の樹のひらけたところで馬をつなぐ」  前方をさして声をかけると、アイディーンは馬をおり先に立って進む。  この二頭の馬はどちらもスィナンを必要以上に恐れる気質ではないらしい。  ときおり神経質な反応を示すが、おとなしくカシュカイを背に乗せるだけでも貴重な馬といえる。  腰まで伸びる草がさやさやと音をたてて、二人と二頭の通った後に道らしき痕跡を残した。  やがて背の高い樹がなくなり下生えもごく低くなって広い場所にでると、低木に馬をつなぎ荷をおろす。  「少し休もう」  アイディーンは手早く石を組み、あたりの落ち葉や小枝を拾ってきて、慣れた手つきで火をおこした。  ふとカシュカイに目をやると無表情ながらおちこんでいるように見えて小さく笑った。  スィナンの青年は、野営の知識に乏しく役にたたないと自虐しているらしい。  今回にかぎらず、どんな些事であれ他人の、とくにアイディーンの手をわずらわせることにひどく神経質なのである。  以前理由を尋ねたとき彼は契約の主だからだと答えたので、気にする必要はないと言ったのだが、スィナンの青年にとって終の契約とは非常に重大な意味をもつものらしかった。  それよりもアイディーンが不思議だったのは、成人前から魔種狩りをしていたというカシュカイに、その類の知識がほとんどないことだ。  魔属は人里にばかり現れるわけではないで、魔種狩りといえば野宿を連想する彼には純粋に疑問だった。  「申し訳ありません。次からは私が」  執拗に断ると余計におちこむのを知っているアイディーンは――これまでに何度かそういうやりとりをくりかえした――わかったとうなずくにとどめた。  カシュカイが自身を不要だとみなされるのを極端に恐れるらしいのは、常に感じていたことだった。  行動を共にしてきた時間はわずかだが、それでも彼のこれまでの人生が決して平坦ではなかっただろうと察せられる。  マラティヤでありながら蔑まれ、くりかえし嘲罵の言葉を投げつけられるような暗い体験が、この恐れを生むのだろうか。  「ひとりで魔種狩りをしていたときは、野宿はどうしていたんだ」  「樹木の上は比較的安全なので、そこで休息をとっていました」  「食事は」  「水や植物の気流です。ときおり植物の実なども食べていました」  「気流?」  アイディーンはぽかんと口をあけた。  一般的な知識として、動植物や自然界に生命活動の源となる気流が含まれているのはもちろん知っているが、神や精霊でもあるまいしそんなものを食して生きる者など聞いたことがない。  「魔族が人間を直接食うのではなく気流を糧として摂取するように、スィナンも人間を欲します。しかし私はそれを許されていないので、自然気流で代用しています。訓練をうけたため人間のように調理した食事をとることはできます」  「普通に食事ができるなら、なぜそうしない」  「人間の食事は身体に負担がかかるので」  淡々と答えたが、カシュカイにとって進んでうちあけたい事情でないようだった。  これまで、だされた食事に対してなんの不平ももらさなかったからだ。  たしかにすすめられた食事を断ったり残したりするのは礼儀に反するが、いったいどんな気持ちで食べていたのだろうか。  なにより、アイディーンには知られたくなかったに違いない。  聞かれなければ、自分から言いはしなかっただろう。  「自然気流で代用できるなら、スィナンにとってもそのほうが安全じゃないか。人間を敵にまわさずに済み、危険をともなった契約を生みだすことも、封印の憂き目にもあわずにすんだはずだ」  「人間の代わりにするためには大量の自然気流が必要だからです。そこに労力を費やすより人間を襲うほうがたやすく、スィナン全体を支えられるだけの自然気流がケレス大陸にはありません。なにより、人間を狩る衝動をおさえるのは容易ではない」  「おまえには、ヴァルム・ドマティス導師の法術が効いているのか」  カシュカイは「はい」と答えた。  その顔には一片の感情もみあたらない。  心身の本質すらひずませるその強制を、なぜ従順に受けいれるのか。  それとも自ら望んだというのだろうか。  本能の自由、行動の自由、ほかのあらゆる自由を奪われながら、存在を侮辱され続けることを。  それでも人間を守ろうとするのだとしたら、アイディーンに彼を理解するのは難しかった。  それは、なにからも自由であることをアイディーンがもっとも欲しているからだ。  決められた運命にあるマラティヤ、古い伝統を重んじる家、多大な責任を課せられた身分や立場、それらの様々な不自由をもって生まれたからこそ、彼はそのすべてから自由であろうとしていた。  いや、不自由を全うしたうえで、それでも彼はなお自由で、強く自立している。  その揺らぎない精神の成熟した輝きこそがアイディーンの本質だと、どれだけの人間が気づくだろうか。  額の紋章があるかぎり、人々はマラティヤであるという側面にとらわれてしまう。  それはしかたないことで、そんな彼らの期待に応えてふるまう鷹揚さもアイディーンはもっていた。  彼の性質と環境が、彼自身の健全な精神と肉体を育んだのだった。  「この仕事を終えたら、しばらく町でゆっくりすごそう。最近どうにも働きすぎだ。……カシウの話を聞きたい。俺たちは互いをもっとよく知るべきだ」  カシュカイはうなずいたものの、彼にしてみればこれまで交わした言葉の数々がすでに過分に思えた。  アイディーンが求めるままにいつも多くを語ってしまうが、幼いころから言葉を発するのを厳しく戒められてきたという事実がある。  そのため話す行為そのものにひどく違和感があり、そんな自分がふと恐ろしくなる。  アイディーンは共にいればいるほど不思議な青年だった。  怒りも侮蔑もなく、なんの禁忌もカシュカイに与えない。  あまりに束縛から遠い態度に、かえって彼はたびたび途方に暮れてしまうのだった。  終の契約を交わした主であるという以前に、アイディーンはなにに対しても必要以上の関心を示さないため、スィナンの青年はどうしようもない無力感をつのらせずにはいられなかった。  ――「瘴気が濃くなってきた」  不意にアイディーンが言うのと、カシュカイが印を組みはじめるのが同時だった。  あたりが急激に霧におおわれて白さを増しはじめた。  目印になるはずのたき火すらおぼろげに正体をなくしていく。  カシュカイの意識が一気に魔属の気配に集中しはじめた。  魔種狩りはいい。  なにも考えず、ただ目の前の敵を殲滅すればいいからだ。  この身がそのためだけに生みだされた存在なのだと彼は改めて自覚した。  「攻撃は待て」  アイディーンが前方を見ながら制した。  大気のマラティヤはいぶかしげな目を向けながらも印を解く。  「おや、悠長だね」  そびえる樹の上から、幼い声がこぼれおちてきた。  舌足らずな少女の声、しかし妖艶な艶を含んでいる。  「そこでやめてしまったら、殺されてしまうかもしれないよ」  「そんな無粋なやりかたを好まないのが魔族の手口だろう」  アイディーンが軽口でかえすと、ほほ、と笑い声がして、枝に座っていた少女がゆっくりとおりてきた。  肩で切りそろえられた髪がふわりと舞って多彩な色をみせる。  それは万華鏡のようでありながら、カシュカイよりも赤みが強い。  「可愛いことを言うね。ではしばらく遊んであげようか。……おや、臭い子がいる」  美少女といっていいだろう愛らしい顔だちをした魔族は、ふと気づいたように袖もとで鼻を隠した。  不快に細められた眼がスィナンの青年にそそがれる。  「マラティヤかと思ったら、しようのないのがいる。それ(・・)は臭いから先に殺してしまおう。そなたは湖緑の髪が素晴らしいから、しばらく(わたし)の目を楽しませておくれ」  アイディーンは眉をしかめた。  魔属のうちでも人間と魔属の末裔であるスィナンは忌まれていると聞いたことがあるが、実際そうだとは信じていなかった。  魔属にはいかなる禁忌もないといわれているからだ。  力さえあれば、なにをするも自由で制限がない。  たとえば同属殺しをすることもあるし、食糧である人間を愛玩動物にすることもある。  しかし、なぜか人間と混じり子孫を増やし続けたスィナンだけは激しい嫌悪の対象となった。  それは一族が絶滅に瀕しているいまも変わらないらしい。  カシュカイは表情のないまま前方の敵を見すえた。  言われ慣れた雑言をくりかえされただけだと思っているのだろうか、整いきった冷たい横顔からはなんの変化も読みとれなかったが、周囲に集まりはじめた風属の精霊の急速な濃度の高まりが、彼の魔属への殺気が確実に強くなっているのをうかがわせた。  たしかに魔属と認めた時点で速攻殲滅を旨としてきた大気のマラティヤにとって、この状況は異常ではあった。  制止したのがアイディーンでなければ、彼の闘争心をとめるのは誰にもできなかっただろう。  「どちらにしても殺されるのはごめんだ。おまえたちがマラティヤを嫌悪しているのは知れた話だ」  「そなたがいい子にしているなら、ずっと可愛がってあげなくもないよ」  「それは無理だ。魔属を狩るのが俺たちの務めだからな」  アイディーンに迷いはなかった。  どれだけ相手が幼く非力にみえたとしても、それは外見だけのことでしかない。  これほどの瘴気をまとっているなら相当の年数を生きてきたのだろう、そうであれば比例するだけの人間の犠牲があったはずで、目の前の少女を討つのはマラティヤとしての責務だった。  そのうえで攻撃をしかけずにいるのは、確認することがあるからだ。  「ひとつ聞く、おまえはエシュメから渡ってきた魔族か」  アイディーンの問いに、少女は怒気をはらむ。  「妾をこのような人間どもの地で生まれた下賤と思うか。我が郷は、おまえたちが中央大陸と呼ぶエシュメのみ」  アイディーンは笑んで、スィナンの青年の闘争を制していた手を退けた。  「この地にわだかまるものたちよ、大気の神セネの名において命じる……」  印を組みかえてカシュカイは静かに詠唱した。  大気神の名を借りた呼びかけに、一帯の精霊が応じて空気が張りつめる。  「効かぬ」  少女は回避呪を唱えながら樹の枝からとびのいた。  直後に枝は目に見えない重圧を四方から受けてへこみ、硬い音をたててくだけ散る。  「――捕らえろ!」  追ってせまる不可視の攻撃を避ける魔属の隙をついて、アイディーンはすばやく命じた。  「あっ」  小さな足先がおりたった樹の枝に絡まっていた蔦が、音もなく巻きついて動きを封じる。  さらに伸びあがってきた幾本もの蔦が鳥籠のように少女の周りを囲んで、互いに絡みあった。  「二人だとこれほど早いのか」  大地のマラティヤは感心して、蔦に命じ少女を地におろさせた。  「中ツ地の精をもってその証を示せ……」  「うっ……、なに」  たて続けの別術文を唱えたカシュカイに魔族は憎悪の目を向けたが、自らが収縮していくような違和感を覚えてうめき声をもらす。  「あ、あ……なにをッ」  腹をかきむしりえずいたと思ったとき、彼女は小さな口から紫赤の珠を吐きだした。  目を見開いてそれを凝視した直後、すでに魔属は事切れていた。  前のめりになってそのまま倒れこんだ小さな身体をスィナンの青年は冷ややかに見おろし、靴先でそれをどかせると下敷きになっていたあやしげな光を放つ珠をとりあげる。  布に包んでさしだされた珠をうけとり、アイディーンは地面に小さな円陣を描き中心に珠を置いていくつかの印を組んだ。  「瞬く時の神キリムの名において……」  珠は一瞬おしつぶされたようなひずみをみせて拡散した。  「さて、アルカダッシュに戻るか」  地面の陣を消しながら青年は言った。  はやくも東の空が明るくなりはじめている。  「待ちぶせで何日も野宿せずにすんだのはいいが、眠いし腹は減るし、奴らも昼間にでてくればいいのにな」  爽やかな青年の爽やかではないぼやきに、カシュカイはどう反応していいかわからず沈黙を保ったが、いつもは切り替えにくい戦闘の興奮の余韻がすでにぬけているのに気づいた。  彼のそばにいるとなぜか気分が凪ぐように穏やかになる。  誰もが彼を見て、彼と話して安堵を感じるように、自分も恩恵を受けているのだろうか。  「疲れていないか」  「はい」  アイディーンはうなずいて馬に乗った。  カシュカイも続いて騎乗すると、二頭の馬はもと来た道をたどっていった。  ――魔属は闇から生まれるといわれている。  その真偽はさだかではないが、出生地が大きく二つに区別されるのは古くから知られていた。  つまり中央大陸エシュメに生まれるものと、そうでないもの。  エシュメで生まれた魔属にはその自負がある。  人間が定住し圧倒的多数で主権をにぎる外界で、ひそかに出でる同属を彼らは必然的な格下として蔑視し、実際に魔属の起源の地ともいわれるエシュメには、そこで生まれたものしか行き来できなかった。  それはマラティアであっても例外ではない。  しかし暗黒期を可能なかぎり早急に収束させるため、なんとしてもエシュメへ行く必要がある彼らは、その規律に従うわけにはいかなかった。  多くの時間と人命を費やし、やがて人間は問題を解消した。  属する神の名を借りて精霊たちを支配するという、それまでの法術とはまったく体系の違う術を開発したのである。  それによって、エシュメを行き来できる特定の精が魔属のなかにあることをつきとめ、さらには身体から抽出する技をも編みだしたのだった。  ゆえに、これらの法術の詠唱には神の名を唱えない。  〈等質法〉と呼ばれるこの種の術系は、いまや神の名において行使する〈精霊法〉と共に二大体系を築いていた。
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