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食わず嫌い
「なあ、伶」
唐突に名を呼ばれ、半分ねぼけながらも柏木伶は「ああ?」と答えた。
「愛してるよ」
眠気が吹っ飛んだ。
「お、面白い冗談だな、智史」
「俺は本気で言ってるんだが」
その言葉どおり、荻野智史の顔は真剣だった。
「映画の影響でも受けたか?」
智史から目をそむけて、口早に伶は言った。
はるか前方のスクリーンでは、陳腐な恋愛映画が絶賛上映中だが、観客は伶たちを含めてわずか五、六人しかいない。
「内容はおろか、あらすじまで俺は知らない。もっぱら、おまえの観察をしていたからな」
冷静に智史は答えた。と言っても、彼は普段からしてこうなのだが。それだけに、美貌が冷たい印象を与える。
「それで、どうして突然……」
「おまえ、先週の日曜、女連れて歩ってたろ?」
伶は絶句して、智史を凝視した。
しかし、単なる事実確認をしているだけのように、智史の表情は淡々としている。
「それでもって、この映画館入って、この映画、一緒に見たろ?」
「…………」
「で、その女とキスしたろ?」
「どうして、おまえがそこまで知ってるんだ?」
これはもう何を言ってもごまかせない。長年のつきあいからそう悟った伶は、智史の発言を事実として間接的に認めた。
「自慢じゃないが、俺にはおせっかいな友人が多い」
「友人じゃなくて下僕だろ。……俺が女とキスしたことが、おまえにどう関係あるんだ?」
「はらわたが煮えくり返った」
「…………」
「だから、同じことをしてやった」
そこで、伶はここに来る前から抱いていた疑問を思い出した。
「じゃあ……この映画の前売り券もらっちまったから、一緒に来いって言ったのは……」
智史は小馬鹿にしたように眉を吊り上げた。
「おまえ、俺と知り合って何年だ?」
「確か、小五んときからだから……九年になるな」
「そんなにもなるのに、俺がこんな映画見そうもないことくらい、気づかなかったのか?」
「妙には思ったよ。でも、おまえ〝もったいない病〟だからな。もらえるものはもらっとこうって思ったんだろうって思ったんだよ」
「よくわかってるじゃないか」
智史はにっこり笑ったが、伶は戦慄した。こういうときの智史は、表情とは裏腹に、手がつけられないほど怒り狂っているのだ。
「俺は別に、おまえが映画館で女とキスしたのが悪いって言ってるわけじゃないんだ」
相変わらず、顔だけはにこやかに智史は言葉を連ねる。
「ただ、あんな女におまえはもったいなさすぎるって言いたいだけだ」
「あのなーッ!」
伶は思わず声を張り上げたが、前方にいる観客たちの無言の非難を感じとって、あわてて口を閉じた。
「何だ? 俺は本当のことを言ってるだけだ。あんな、服は自分の体型を考えてない没個性、ヘアースタイルも没個性、顔だけは化粧とったら個性的なような女には、おまえはもったいない、もったいなさすぎる。おまえの言うとおり、俺は〝もったいない病〟だからな、こういうのは我慢ならないんだ」
「……どうしてそんな細かいとこまで知ってるんだ?」
「俺のおせっかいな友人の一人が、わざわざ俺に写メを送ってくれた。おまえ入りで」
伶は深く嘆息してから、さらに質問を続けた。
「いつからだ?」
「何が?」
「俺を、いつからそんなふうに思ってた?」
かすかに智史は笑った。
「くだらないことを訊くな。最初っからに決まってるじゃないか」
「…………」
「もっとも、本当にそう自覚したのはつい最近……あの女のことを知ってからだけどな」
「俺なんかのどこがいい?」
「全部――と言いたいところだが、二枚目半のところが特に」
「俺は……おまえを親友としてしか見られない」
智史はまったく表情を動かさなかった。
それこそ、顔の筋一本さえも。
「そんなこと、最初っからわかってたよ」
そう言って、智史はスクリーンに目を移した。
「だから、おまえは二枚目半なんだ」
――もっと他に言いようはなかったのか。
今さらながら、伶は後悔した。
確かに、自分は智史を親友としてしか見られない。しかし、それでも彼を傷つけたくはなかったし、失いたくもなかった。その呼び名がどうであれ、智史がかけがえのない存在であること、それだけは事実なのだ。
伶は智史の横顔を盗み見た。
妙に白く見えた。
伶の視線を感じたのか、ふと智史が伶のほうを向いた。
伶と目が合った。
伶は視線をはずそうとした。だが、できなかった。
「伶」
「な、何だ?」
「記念にキスしろ」
伶の秀麗な顔が歪む。
「な、何ッ!?」
「いいだろ、一回くらい。それ以上は望まない」
「あのな、人がいるんだぞ、ここには!」
「先週もここでしたんだろ」
「馬鹿! あのときは……」
「こんな席にいるんだ、誰も見てない」
智史は軽く言ってのけた。
「この映画館出たら、みんな忘れてやるから」
これほどひたむきな目をしている智史を初めて見た。
胸がつまった。
何も言えなくなった。
しかし、理性は苦しんだ。
「智史。目つぶれ」
そう言いながら、実は伶のほうが先に目をつぶっていた。
あまりに伶の心にかないすぎた。
どこかぎごちない、ただされるがままの唇。
感情のままに肩を抱けば、たいして身長も変わらないはずなのに、驚くほど細く感じた。
智史が耐えきれなくなって、伶の襟元をつかむ。
周囲のことなど、もう気にもならなかった。
二人は初めて重ねた〝親友〟の唇にのめりこんでいたのだ。
途方もなく長い時間が過ぎた。
名残惜しかったが、ようやく唇を離した。
「智史……」
甘い余韻に伶は酔っていた。
うっすらと赤い智史の頬を、そっと両手で包む。
そして――
誰もまともに見ていない映画のセリフと、偶然ダブった。
「ホテルに行こう」
―了―
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