第1章 契約 (4)契約成立

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第1章 契約 (4)契約成立

 間近で見ても、男は美しかった。  これほどに整った顔をした男も女も、フィルドは今まで見たことがない。  見かけは二十代半ば。本来なら、この男のほうがエリウスにとって〝坊や〟だろう。いずれにせよ、妖魔だとはとても思えなかった。  だからこのとき、フィルドが恐怖ではなく怒りにかられてしまったのは、男があまりにも人間に似すぎていたせいかもしれない。少なくとも、エリウスから受けた忠告のことなど、まったく頭になかった。 「人に名を訊ねるときは、まず自分から名乗るのが礼儀ではないのか?」  都の人々には冷静沈着と思われているフィルドだったが、実は後先を考えない無謀なところもあるのだと、知っているのは家族とごく親しい者たちだけだった。  男はあっけにとられたようにフィルドを見つめていた。おそらく、それまで人間にそんなことを言われたことはなかったのだろう。  フィルドは気づかなかったが、このとき、エリウスが魔法円からサラを連れ出して、グロウのもとに連れていってくれていた。知っていれば、フィルドはその場で礼を言っていた。 (しまった。つい口が滑った)  自分の顔を離れる男の手を目で追いながら、フィルドは己の軽率さを深く後悔していた。  男が何のつもりで自分の名前を訊ねてきたのかはまだわからないが、何であろうと、怒らせるのは良策ではないだろう。妖魔にとって人の命など、取るに足らないものなのだ。 (殺される!)  そう覚悟して思わず目を閉じたとき、男の手はフィルドの首ではなく、フィルドの右手をつかんでいた。 「すまなかった」  その声を聞いて再び目を開けると、男はつかんだフィルドの手の指先に、軽く口づけを落とすところだった。 「確かに私が礼儀知らずだった。まずは私から名乗るべきであったな」  今度はフィルドが唖然とした。妖魔であるはずの男が、人間の自分に詫びている。おまけに、いくら手とはいえ口づけまで。  当たり前と言えば当たり前だが、今まで人間にもこんなことをされたことはない。つい顔が赤くなってしまうのは、やはりこの男の姿も手の感触も人間としか思えないせいだ。たぶん。 「我が名はディアス」  フィルドの手を握ったまま、男――ディアスは言った。 「そなたの名は?」  名乗られたのだから、名乗らねばならないだろう。ためらいながら、フィルドは答えた。 「フィ……フィルド……」  正式には〝フィランディア〟なのだが、生まれてこのかた、一度もそう呼ばれたことはない。 「フィルド……」  この男に言われると、まるで自分の名前ではないように聞こえる。 「そうか……フィルドか。よい名だ。いかにもそなたにふさわしい」  ディアスはにっこり笑ったが、この名前は〝グロウ〟と同様、ありふれた名前の一つなのだ。妖魔も世辞を言うのだろうか。 「あの娘の血縁か?」  いっこうにフィルドの手を離さないまま、ディアスは今度はそんなことを訊ねてきた。  うなずこうとしてフィルドはサラの存在を思い出し、あわてて彼女が入っていた魔法円を振り返った。  当然、そこは無人だった。フィルドはサラを捜して目を巡らせ、すぐに父のそばに立つ彼女を見つけた。  サラは蒼白な顔をして、父の太い腕にすがりついていた。父は父で、何かを懸命にこらえているような顔をしている。彼らの前にはエリウスがディアスから庇うように立っていた。 (よかった)  とりあえず、サラは助かった。思わず微笑んで、フィルドはディアスに向き直った。 「そうだ。あの子は私の妹。私はこのファスベルの領主の長子、フィルドだ」 「では、この都はいつかおまえのものになるのだな?」 「それは……」  そうだと答えられなかったのは、もう自分がここには戻れないことを予期してしまったからだった。  ――必ずしも、サラが選ばれるとは限らない。  それは、サラが選ばれないことを知っていたことの裏返しではなかったか。 「おまえのものだ、フィルド。私が、そう決めた」  ディアスは笑うと、エリウスを振り返った。 「エリウス、契約だ」  ディアスの声は、抑えきれない歓喜に満ちていた。 「我が名にかけて、この都を守ってやろう。この都に属する者は、いかなる敵からも脅かされぬようにしてやろう。契約の証として、この都の名を我が名に変えよ。その名が続くかぎり、この契約は生きつづける」  契約成立。  しかし、人々の表情は晴れなかった。  彼らは知っていた。その代償としてファスベルは、唯一無比のものを失ったのだと。 「契約の代価として、何を求める?」  すでに知っていても、エリウスは確認しなければならなかった。そのために、彼はここに来たのだ。  ディアスはにやりと笑うと、茫然としていたフィルドを自分の胸の中に抱きこんだ。 「この都の最後の王、フィルドを。それ以外は、受けつけぬ」  フィルドはもう驚かなかった。サラではなく、自分の犠牲でこの都を救えるのなら、それでいいと思った。  だが、ディアスの宣言を聞いたと同時、人々はこらえきれなくなったように、嘆きの声を口々に上げた。 「若様……若様……」 「どうして、若様が……」 「フィルド様……」  さすがに領主たる父は、彼らと一緒に騒ぐようなことはしなかった。顔を覆って泣くサラを抱えたまま、悔しそうにフィルドを見つめていた。  ここにいる誰よりも、彼がいちばんフィルドに後を継がせたいと思っていたことを、フィルドは知っていた。この都の領主には、おまえのような黒髪金目の人間がなるのがふさわしいのだと。  大魔術師エリウスは、もはや静かにしろとは言わなかった。今まで穏やかな笑みを浮かべていることが多かったその顔は、別人のように感情をなくしている。彼が今何を考えているのか、フィルドにはわからなかった。 「どうやら誤解があるようだが」  ディアスはフィルドの顔を自分のほうへ向かせると、楽しげに笑った。  これほど近くで見ても、燭台の淡い光では、ディアスの瞳が何色をしているのかはわからなかった。少なくとも、黒ではないことしか。 「私はこの都と契約を交わしたつもりはない。あくまでおまえとだ、フィルド」 「何?」 「この都はおまえのものだ。ゆえに守ってやろうと決めた。おまえのものでなかったら、こんな馬鹿げたことなどせぬよ。慈悲深き闇の母の末裔よ」 「何を言って……」  困惑してディアスを見上げたとき、かすかに半鐘の音が聞こえた。 「あれは……」  人々が、正気に返ったように互いの顔を見合わせる。 「あの鳴らし方は……」 「お、お、お館様ーッ!」  その男の声は、大広間の扉を開ける前から中の人間の耳にも届いた。 「た、た、大変ですーッ!」  ノックをして入室の許可を得る余裕もなかったらしく、男はいきなり扉を開けたばかりか、その前に立っていた人々を掻き分けて領主を捜しはじめた。 「何事だ! 騒々しい!」  現領主グロウはいち早くいつもの自分を取り戻すと、近くにいた者にサラを預け、自らその男に歩み寄った。 「もう終わっていたからよかったものの、儀式の最中だったらどうするつもりだ!」 「も、申し訳……いやいや、それどころじゃありません!」  一瞬頭を下げかけた男は、すぐにまた跳ね上げた。 「よ、よ、妖魔が……」 「妖魔が?」 「ま、まっすぐこちらへ向かってきておりまして……と、とにかく、早くお逃げくださいッ!」 「エリウス様!」  人々が悲鳴を上げる前に、グロウは老魔術師を振り返った。 「妖魔が襲ってくるのは、二日後の夜ではなかったのですか!」 「流れが変わったのだ」  エリウスの代わりにそう答えたのは、その妖魔の一員だった。 「そうだろう? エリー坊や。おまえが望んだ、新しい流れだ」  エリウスは古なじみの妖魔を横目で睨んでから、静かに口を開いた。 「悔しいが、ご領主殿。その妖魔の言うとおりです。流れは変わりました。私がこの都を訪れたときと、状況は変わったのです」 「妖魔はどこから来ている?」  実務家であるグロウは、老魔術師を責めることよりも、現状を把握することを優先させた。 「に、西の方角から……」 「数は?」 「わ、わかりません……地平線いっぱいに広がってて……後から、後から……」 「なるほど。このためか」  ディアスは小さく呟くと、真顔でフィルドを覗きこんだ。 「では、私は仕事をせねばなるまいな?」 「当たり前だ!」  思わずかっとなって叫ぶと、ディアスは愉快そうに笑った。 「承知した」  ディアスがフィルドを抱きこんで目元を覆い、すぐに離した。強い風がフィルドの黒髪を吹き乱す。  不思議に思って周囲を見ると、そこは屋敷の大広間ではなく、星空の広がる戸外だった。  しかも、二人が立っていた場所は、都に張り巡らされた高い城壁の上だったのだ。 「ディ、ディアス……!」  思わず妖魔の名前を呼ぶと、当の妖魔はすました顔で答えた。 「おや。高いところは苦手かな?」 「そ、そんなことはないが、しかし……」 「……フィルド様?」  ディアスのものではない、若い男の声だった。  あわてて声のしたほうに顔を向けると、そこには松明の灯った見張り台があり、見張りらしい男が一人いた。フィルドには見覚えのない顔だが、向こうはこちらを知っているようだ。目を剥いてフィルドたちを見ていた。 「どうやってこんなところに……あ、それどこじゃなかった、早く逃げなきゃ、妖魔が!」  我を取り戻した男が、城壁の外を指さす。丸い月は天空高くにあったが、地上に蠢くそれらをはっきりと照らし出していた。  まるで森が動いているかのようだった。地平線を覆うように広がって、こちらへ向かってくる。  だが、その森は奇声を発し、空中にもいくつか浮いていた。 「あれが……全部?」  気が遠くなりそうだ。不覚にも、ディアスの胸にしがみついてしまった。 「見たところ、下等なものばかりだな」  妖魔は夜目もきくのか、しっかりフィルドを抱えこんだまま、呑気な調子で言った。 「群れたがるものはいつもそうだ。妖魔でも、人間でも。いったいどこから湧いてきたものやら」 「知らないのか?」 「奴らがどこから来たかをか? 知らぬな。私は人界にはあまり興味がない。おまえにはありあまるほどあるが」 「それはいいから、早く何とかしてくれ! このままではファスベルが!」  ディアスは興を削がれたような顔をしたが口には出さず、己の同族――とこの妖魔は思っていないのかもしれないが――の群れに目を転じた。 「ふむ。吹き飛ばすより、切り飛ばしたほうが確実か」  そうディアスが呟いたと同時。  もうその異形ぶりがわかるところにまで迫っていた妖魔たちの上半身が宙を飛んだ。  後続がそれに気づいて怯んだ、その瞬間に同じ運命を辿った。  目に見えない巨大な刀の一薙ぎで、人を死に至らしめるはずだった妖魔の行進は、自らの死の行進へと変わった。 「こんなに……あっけなく……?」  フィルドがようやくそう言えたとき、城壁の外で動いているものは何もなかった。 「不満か?」  喉の奥でディアスは笑った。 「この都の中に入ってから始末したほうがよかったか?」  フィルドは青くなって首を横に振った。 「それは困る!」 「ならば、なぜ喜ばぬ? これがおまえたちの望みだったのではないのか?」 「それはそうだが……」  返す言葉に窮して、フィルドはディアスから目をそらした。  確かに、そのとおりだ。ファスベルが妖魔の召喚を行ったのは、今のような妖魔の襲撃を退けるためだった。  だが、まさか一瞬で、あれだけの数の妖魔を葬り去れるとは。  正直、フィルドはあの妖魔の群れよりも、いま自分の傍らにいるディアスのほうが恐ろしかった。人間としか思えぬこの妖魔は、いくら契約したからとはいえ、何の躊躇も逡巡もなく同じ妖魔を殺したのだ。 「フィ……フィルド様……」  おそるおそるといった様子で、見張り台にいる男が声をかけてきた。 「その……いったい、何がどうなって……?」 「見たとおりのことだ。おまえたちが恐れたものは私がすべて滅ぼした。他の奴らにもそう知らせてやるがいい」  自分をさしおいてフィルドに話しかけられたのが面白くなかったのか、ディアスは露骨に不機嫌そうな顔をして、見張りの男に吐き捨てるように答えた。  その言葉を聞いてフィルドは我に返った。そうだ。今頃都は大混乱に陥っているはずだ。早く安心させてやらなければ。 「すみませんが、そうしてもらえませんか。ここには私たちがいますから、早く」 「は、はい!」  あくまでもフィルドに対して男はうなずくと、あわてて見張り台を降りていった。 「もうここに用はなかろう」  ディアスは不満そうにフィルドを抱き寄せた。抗えば逃れられるかもしれなかったが、狭い城壁の上でそれを実行する勇気はフィルドには持てなかった。 「まだ夜は明けていない。これから新手が来るかもしれない」  意外なことにディアスは笑った。苦笑まじりではあったが。 「用心深いことよな。さすがは領主の息子と言うべきか」  一瞬、目の前が暗くなったかと思うと、フィルドはディアスと共にあの見張り台の中にいた。先ほど屋敷の中から城壁の上へ移動したのと同じ力だろう。妖魔にはそのような力もあるらしい。 「見張るのならこちらのほうがよかろう。寒くはないか?」 「別に……」  そう答えはしたが、初春の夜風は少し応えた。せめて松明で暖をとろうと近づくと、ディアスはフィルドを抱きとめて、いったいどうやって取り寄せたのか、柔らかな白いローブを彼に着せかけた。  非常に軽いのにもかかわらず、それは夜の寒気を完璧に防いだ。サラにやったら喜ぶかもしれない。誰からもらったのかを知ったら怒るだろうが。 「夜が明けるまでだ」  ――夜が明ければ、おまえを連れていく。  言外に、美貌の妖魔はそう告げた。 「また別の夜に、妖魔がここを襲うかもしれない」  言いなりになるのが悔しくてそう切り返すと、ディアスはすでに予測していたかのように笑んだ。 「結界を張っておく。私がいなくとも、あらゆる外敵を退けられるように。――妖魔だけが、おまえたちの敵ではあるまい」  松明の赤い光に照らし出されたディアスは、やはり人間にしか見えなかった。  人間に化けているだけなのか。それとも、これが真の姿なのか。フィルドにはわからなかったが、彼を抱きしめるディアスの手は温かかった。 「どうした?」  フィルドの視線に気づいて、ディアスは目を細めた。 「何か訊きたいことでもあるのか?」  図星を突かれて、フィルドは少したじろいだ。  訊きたいことはあった。だが、それにこの妖魔は答えてくれるだろうか。 「……〝妖魔〟とは、何だ?」 「ふむ」  そんなことかとでも言いたげに、ディアスは笑った。 「では、逆におまえに問う。〝人間〟とは何だ?」 「それは……」  思いもかけない問い返しに、フィルドは動揺した。 「答えられまい。おまえの質問は、そういう類のものだ。ただ一つ確実に言えるのは、妖魔は人間ではないということだけだ。人間が妖魔ではないのと同じように」 「ならば、妖魔にとって人間とは何だ? 単なる食料か? だから、人間の都を襲うのか?」 「その質問には、そのような妖魔もいるとしか答えられぬ。おまえたちは一口に妖魔と言うが、おまえたちが思っているほど、一様ではないのだよ。少なくとも、私はおまえを食料だとは思っておらぬ」  確かにこの妖魔はフィルドを食料だとは思っていないだろうが、自分と対等だとも思っていないだろう。今のところ、フィルドを抱きしめる以上のことはしてこないが、実際何をされたところで逆らえはしないのだ。 「座らないか?」  ディアスはフィルドの手を取ると、見張り台の内部に置かれていた粗末な木箱の上に腰を下ろさせた。座った感触が予想外に柔らかかったので、驚いて腰を浮かせると、そこには先ほどまではなかった毛織りの敷物が敷かれていた。まるで魔術師のようだ。いや、本物の魔術師は、こんなことができるのだろうか。  フィルドを座らせはしたものの、ディアスは立ちつづけたままだった。満足そうにフィルドを見下ろす。  結界を張れるというのなら――どうやるのかフィルドには想像もつかないが――ディアスがここに居続ける必要はないはずだ。  ただ、フィルドの希望を叶えるため。そのためだけに今もこの妖魔はここにいる。  妖魔とはこういうものなのか。それとも、この妖魔だからこうなのか。  今まで妖魔に会ったことがないフィルドにはわからなかった。 「眠いのなら、寝てもよいぞ」 「寝言を言うな」  ディアスは肩をすくめると、見張り台の外へ秀麗な顔を巡らせた。  この先、何が起こるかはわからない。  だが、たとえ何があったとしても、いま星空を背にして佇んでいるこの妖魔の姿を忘れることは、たぶんできない。  東の空が白むまで、あと何時間あるだろう。あと何時間、ここにいられるのだろう。  ――このまま、永遠に夜が続けばいいのに。  あり得ないことを願いながら、フィルドはふと、日の光の下でならディアスの瞳の色がわかるだろうかと思った。
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