15人が本棚に入れています
本棚に追加
第1章 契約 (2)妖魔談義
エリウスは妖魔の召喚場所として、領主の屋敷の大広間を所望した。
「これも星の巡り合わせですか?」
ついフィルドが嫌味を言うと、エリウスは平然と、左様と答えた。
「一つでも違うとずれてしまう。そういうものです」
術の準備は、すべてエリウス自身の手によって行われた。
腰は曲がっていないものの、髪も髭もすでに白いエリウスが、人払いのされた大広間の床に立ったまま、大儀そうに杖で魔法円を描いている姿は、彼に不信感を抱いているフィルドにも同情心を起こさせた。
フィルドは悩んだあげく、老魔術師に声をかけた。
「何か、お手伝いいたしましょうか?」
エリウスは嬉しそうににやりと笑ったが、首は横に振った。
「有り難いお申し出ですが、これが私めの仕事ですからな。しかし、もしよろしければ、誰もここには立ち入れないように見張りをお願いできますかな。それと、これを描き終えるまで、私には話しかけないでいただきたい」
「……承知しました」
確かに、作業中に話しかけられれば気も散るだろう。
フィルドは大広間の扉の前に椅子を置いて座ると、そこから老魔術師の仕事ぶりを黙って見守ることにした。
大広間を使っているわりに、魔法円の大きさ自体はさほど大きくはなかった。人一人が横たわれるほどの直径しかない。
しかし、そこに描きこまれた紋様はかなり細かかった。何度か召喚術を行ったことがあるというエリウスは――しかし、何を召喚したのかは、決して口にしようとしなかった――自ら調合した墨らしきものの入った壺に時々杖の先を浸し、手本のようなものはいっさい見ずに、黙々と描きつづけている。
こんなもので妖魔が呼べるとは、フィルドにはどうしても思えない。だが、それを別にすれば、この老人の熟練した技は見応えがあった。魔術師としてではなく装画師として。
ファスベルの民が彼を信じたのも、その魔術師としての評判よりも、人間としての魅力からだろう。
三日前の夜、まさにこの大広間で行われた、都の民の代表者たちに対するあまりに一方的な通告も、一時は騒然としたものの、案外冷静に受け止められた。それもたぶん、グロウがフィルドの助言を入れて、最初からエリウスに説明させたからだろう。
彼は脅しも慰めもせず、自分がわかることだけを端的に人々に告げた。それはフィルドにはとても誠実な態度に思われた。
『もしも……もしもですよ?』
有力者の一人が、やたらと顔を拭いながら言った。
『その、召喚術とやらが失敗したら……私たちはいったいどうなってしまうんですか?』
大魔術師に対して失礼極まりない問いであったが――現に、周りの何人かは、不快そうに顔をしかめていた――エリウスはまったく気を悪くした様子もなく、鷹揚に笑った。
『まことによいご質問ですな。まず何をもって失敗とするかですが、二つの場合が考えられます。一つは、妖魔どころか何一つ召喚できなかった場合。これは当然のことながら、皆様方には毛ほどの傷も与えませぬ。私めには致命傷ですがな(何人かがこらえきれずに噴き出したが、周囲に睨まれて口を閉じた。フィルドも人前でさえなかったら笑っていただろう)。もう一つが、私めの手には負えぬものが召喚された場合。この場合は、まことに申し訳ないが、できるだけ速やかにお逃げなさいとしか言えませぬ。実際、術を行う際は、皆様方に累の及ばぬようにするつもりでおりますが。しかし、こう言っては何ですが、実は術の成否はどうでもよいのです。ある時刻、ある場所で、私めが召喚術を行えばよろしい。それが今回の〝条件〟です』
だから、エリウスは老体の身を押して、わざわざここまで来なければならなかったのだ。この先ファスベルが生き残るためには、ここでエリウスが妖魔を召喚しなければならない。
――この好々爺にはいったい何が見えているのだろう。
父の隣にいるエリウスを見つめながらフィルドは思った。
この老人がこうまでして、この小さな都を助けたいと思うのはなぜだ。世界全体に関わることだからだと言ってはいたが、この都がそのような大それた存在になるとはとても思えない。まだ妖魔が集団で都を襲わなかった頃、フィルドは何度か他の都へ父と一緒に行ったことがある。そういくつも訪れたわけではないが、その中でファスベルより小さかった都は一つもなかった。
『エリウス様……本当に、妖魔は来るのですか?』
また別の者が不安そうに訊ねてくる。それはその場にいた十人ほどの人々の心の声でもあっただろう。
『来ますな』
エリウスの返事は早く、短かった。
『それも、かつてないほどの規模のものが。私めの先見が信用できないとおっしゃるなら、それもよろしい。信用した上でこの都を出て行く。それもよろしい。しかし、ここで妖魔を召喚することだけは、どうかお許しいただきたい。これが私めがこの世でする、最後の大仕事なのですから』
老魔術師の口調はむしろ軽かった。しかし、場はしんと静まりかえった。
皆、わかったのだ。この老人がどれほどの決意を秘めて事に当たろうとしているかを。
『と、いうわけだ』
厄介なことはすべてエリウス任せにした父は、わざとらしく咳払いをしてから口を開いた。
『妖魔の召喚は、三日後の真夜中、この屋敷内で行う。そのときには、なるべくここから離れるよう、皆の口から他の者によく伝えておいてほしい。また、どうしても召喚を認められないのなら、召喚前にこの都を出ていってもらうことになるともな。その後もこのファスベルが残っていれば、いつでも帰ってきてくれていい。だが、召喚の邪魔だけはするな。これだけはきつく言っておけ。もしすれば、妖魔が来る前におまえの命をもらうとな』
護衛上がりの父の言うことは、時々ひどく物騒だ。人々は声もなく、ただうなずいた。
その場にサラは同席しなかったが――当たり前だ、できるわけがない――妖魔への供物として彼女が捧げられると知ったとき、人々の顔に驚愕と共に安堵が広がったのをフィルドは確かに見て取った。
それは彼の予想どおりの反応ではあったが、やはり苦々しさを覚えずにはいられなかった。しかし、会合が終わった後、出席者の何人かに呼び止められ、若様、お気の毒にと言われたのには驚いた。
『私が……ですか?』
それはどう考えても、人身御供となるサラにかけるべき言葉だ。面食らっていると、顔見知りでもある彼らは、ますます同情したような面持ちになった。
『そうですよ。たった一人の妹君なのに。あんなに仲もよろしいのに』
『はあ……』
否定はしないが、わざわざ自分に言うことはないだろう。第一、気の毒というなら、娘を失うかもしれない父だって気の毒だ。それとも、父には言いづらいから、自分に言いにきただけのことなのだろうか。
『どうか、お気を落とされませんように。私たちは若様の味方ですから』
あっけにとられるフィルドをよそに、彼らは勝手にそうまくしたて、さっさと立ち去っていってしまった。
――何なんだ。
呆然と見送っていると、エリウスが笑いながら近づいてきた。
『彼らはね。ほっとしているのですよ』
『ほっとしている? 自分たちの娘が生贄に選ばれなかったことにですか?』
口元を歪めて問い返すと、エリウスは苦笑に近い笑みを浮かべた。
『まあ、それもあるでしょうが。――〝人身御供になるのが若様でなくてよかった〟。彼らは心からそう思っている』
『そんな馬鹿な』
老魔術師の突拍子もない発言に、フィルドは思わず笑った。
『私も妹も、同じ領主の子です。万が一、私が死んでも、妹が後を継げばよいだけの話です。現に、私たちの母もそうでしたから』
『……本当に、よい方ですな、フィルド様は』
深い皺に覆われた目を細めてエリウスは言った。フィルドは柳眉をひそめて老人を見返した。彼にはエリウスの言葉は嫌味としか思えなかったのだ。
『お人好しすぎるというのでしょう? よくそう言われます』
『決してそのような意味で申したわけではありませんが』
今度はエリウスははっきりと苦笑した。
『確かに、それはあなたの長所であり、短所でもありましょう。ある者には救いとなり、ある者には災いとなる。変わらぬことは怠慢ですが、できれば、私はあなたにはいつまでもそのままであってほしいと思っておりますよ、フィルド様』
――本当は、この魔術師にはもっといろいろなことが見えているのではないか。
エリウスの言葉の端々に、フィルドはしばしばそのようなことを感じた。
だが、賢明なるがゆえに、彼はそれを明かさないのだ。それはフィルドにとって歯痒いことではあったが、結局のところ、心の奥深くではすでにエリウスを信頼していた。この老人がファスベルのためにならないことをするはずがないと。
「ご退屈ですかな、フィルド様」
ぼうっと物思いに耽っていると、その老魔術師に声をかけられた。あわてて目を上げれば、エリウスがおどけたような顔をしてフィルドを覗きこんでいる。
「いえ、そんなことは……もう終わったのですか?」
そう訊きながら、エリウスの背後を見てみると、魔法円はすでに描き上げられていた。
驚いたことには、それと向かい合うように、一回り小さな魔法円まで。
「まあ、あらかたは。あとは今晩、術を行うときに。しかし、実はこのようなことも、どうでもいいことなのですよ」
エリウスは悪戯っぽく笑って、今まで自分がしてきた作業を全否定した。
「どうでもいい?」
「左様。術に必要なのは、強い意志。それだけです」
「しかし……?」
「フィルド様は、妖魔に会ったことはおありかな?」
エリウスは手近にあった椅子を引き寄せると、自分もそこに座った。フィルドは何か飲み物でも持ってこさせようとして立ち上がりかけたが、エリウスが手で制したので、もう一度座り直した。
「いえ、私は一度も……その、エリウス様、一つお願いがあるのですが」
「何ですかな? この老いぼれにもできることでしたら何なりと」
「たぶん、大丈夫だと思うのですが。――私を〝フィルド様〟と呼ぶのはやめていただけませんか。あなたのような方にそう呼ばれるのは、どうにも落ち着きません」
エリウスは意外そうにフィルドを見つめてから、豪快に笑い出した。
「これはとんだご無礼を。では、どうお呼びすればよろしいかな?」
「ただの〝フィルド〟で結構です」
「では、私のことも、ただの〝エリウス〟と呼びなされ」
「それはできません」
あわてて首を横に振るフィルドに、エリウスはわかっていたとでも言いたげににやにやした。
「失礼。言ってみたかっただけです。あなたはお好きなようにお呼びになればよろしい。では、フィルド。先ほどの話の続きだが、妖魔に会ったことがないということは、妖魔がどういうものかも人の話でしか知らないということかな?」
「おっしゃるとおりです。この都ができたのは、今から三百年ほど前と言われていますが、それから現在まで、この中で妖魔に襲われた者の記録はありません。ここで妖魔を知る者は、エリウス様のように外から来た者か、外から帰ってきた者だけなのです」
フィルドはいったん言葉を切り、改めてエリウスを見た。
「教えてください、エリウス様。妖魔とは、いったい何なのです? なぜ、急に都を襲うようになったのですか?」
エリウスはしばらく自分の白い髭をいじっていたが、フィルドの真剣な眼差しに屈したように苦笑いした。
「一言で言うなら、人にあらざるもの、ですな。便宜上、妖魔と呼んではおりますが、様々な種類があります。人を襲う妖魔などは、その中のごく一部にしかすぎません。実際、人にはまったく無関心な妖魔もたくさんいるのですよ。ゆえに、人には知られていないとも言えるのですがね」
「エリウス様は、ご存じなのですね?」
すかさずそう問うと、エリウスは不本意そうにうなずいた。
「知らないほうがよかったと思うこともありますな。妖魔は自分たちのことはまったく話しませんから。ですから、なぜ奴らが都を襲うようになったのかも、残念ながら私にはわかりかねます。ですが、私はむしろ逆に疑問に思いますな。――なぜ妖魔どもは、今まで都を襲わなかったのか?」
意表を突かれて、フィルドはエリウスを見つめた。
言われてみればそうだった。襲い出したことより、襲わなかったことのほうが不自然だ。魔術師の魔除けを恐れていたわけではないことは、今では充分すぎるほど証明されている。
「おそらく、妖魔には妖魔の事情があるのでしょうな」
それが、エリウスなりの答えらしかった。
「どんな事情があるのかは、人には計り知れませぬ。しかし、人にも人の事情がある。このまま妖魔どもに滅ぼされるわけにもまいりません」
エリウスは杖を支えにして、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「慣れないことをしたので疲れました。しばらく部屋で休ませていただけますかな。できれば、この大広間には誰も足を踏み入れないようにしていただきたいですな。もう一度描き直すのは、骨が折れますので」
「それはもちろん。しかし、これがなくとも召喚はできるのでしょう? 先ほど、必要なのは強い意志だとおっしゃいました」
エリウスにつられるようにして立ち上がったフィルドは、彼の大作を手で指し示した。
「左様。ですが、人にはなかなかそれができませぬ。どうしても、己を、世界を疑ってしまう。あの魔法円は、あくまで召喚の意志を強める道具の一つ。召喚の呪文も然り。本来、召喚する者と召喚される者との間に意志の疎通があれば、そのようなものは何一つ必要ないのです。たとえば名前一つ呼ぶだけでよい」
「妖魔にも名前があるのですか?」
「もちろん。名前がなくては、存在しないことになってしまいますからな。特に妖魔にとっては、人以上に名前は重要な意味を持ちます。もしも妖魔に名を訊ねられたら、決して先には答えないことです。必ず相手に先に名乗らせる。これだけはよく心に留め置いてくだされ」
「はあ……わかりました」
言われるまま、フィルドはうなずいた。たぶんこれから先、そのような事態が起こることはないと思うが。
「では、のちほど」
老魔術師はにこりと笑うと、疲れているとは思えない軽やかな足どりで、大広間を後にした。
最初のコメントを投稿しよう!