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第1章 契約 (3)妖魔召喚
サラの純白の衣装は、花嫁のものによく似ていた。
フィルドはそれをひどく不快に思ったが、口に出しては言わなかった。顔には多少出ていたかもしれないが。
「サラ……」
グロウはフィルドよりも正直だった。当の本人よりも辛そうな様子で、最愛の娘の名前を呼び、強く抱きしめた。
家族や気心の知れた使用人たち――万が一の事態に備えて、全員暇を出したのだが、誰一人屋敷を去らなかった――の前でまで、娘を犠牲にしてでも都を救おうとする冷酷な領主を演じる気はないのだろう。それは父の弱さだったかもしれなかったが、フィルドには好ましかった。自分にはできないことだったから。
「すまん……本当にすまん……」
「父様。もう謝らないで」
泣くだけ泣いて、もう涙も涸れ果ててしまったのか、サラはこの場にいる誰よりも穏やかな目をしていた。
「仕方ないわ。私は父様の娘なんですもの。でも、そのことを後悔したことは一度もありません。こうなった今でも」
「サラ……」
こらえきれず、グロウは鼻を啜り上げた。いちばん辛いのはサラだと知っている使用人たちは、懸命に涙をこらえている。
だが、母は父のこういうところを愛したのではないかとフィルドは思った。サラを生んだ後、すぐに亡くなってしまったから、母の記憶はほとんど残っていないけれど。
「ほら、父様。しっかりなさって。涙を拭いて、鼻をかんで。仮にも領主が子供のように泣いていてはおかしいわ」
十三歳になったばかりの娘は、まるで母親のような仕草で、父の顔を布で優しく拭った。
父は父で、その布を受けとると、それで思いきり鼻をかんだ。正直、領主としていかがなものかと思わないでもないが、今夜だけは大目に見よう。
「兄様……」
サラはフィルドに顔を巡らせると、今度は自分から抱きついた。彼女にとっては父よりも、三歳年上の兄フィルドのほうが、頼れる存在なのだ。そのことに気づいていないのは、たぶんこの場ではフィルドだけだった。
「これからどうなるかわからないけれど……私は兄様の妹に生まれたことを誇りに思っているわ。父様をお願いね」
「サラ……」
自分と同じ黒髪と金目を持つ、たった一人の妹。殺されることはないが、奪われるかもしれない妹。
すでに納得したはずだったのに、フィルドはやはりあの老魔術師を恨まずにはいられなかった。
「そろそろ、お時間です」
潤んだ目をした使用人が、控えめに声をかけた。それが合図のように、グロウは背筋を正し、娘に手を差し伸べた。
「来なさい。エリウス様が待っておられる」
「……はい」
サラは小さくうなずき、父の手をとった。
離れていくサラを見つめながら、フィルドは彼女を抱きしめる以外に何もしてやれない自分をふがいなく思った。
*
壁に必要最小限の燭台を灯された大広間は、生まれ育った自分の屋敷内であるにもかかわらず、まるで別世界のように見えた。
しかし、フィルドが驚いたのは、そこに決して少なくはない数の観客を認めたからだった。
「これは……?」
いったい何事なのかとグロウを見やると、彼も知らなかったことらしく、あわてて首を横に振った。
「いや、私は聞いとらん。いったい何事だ? あれほどここを離れろと言っておいただろうが。今宵ここで行われるのは、宴などではないぞ?」
「それはもちろん、よく存じております」
一同を代表する形で、三日前の会合にも出席していた男が、恭しく頭を下げた。
「しかし、だからこそ、皆でこうして見届けるべきかと思いましたわけで。エリウス様にお伺いしましたら、決して術の邪魔をせず、黙って見ている分にはまったくかまわないとおっしゃいましたので。もちろん、お館様がお許しくださらなければ、我らはすぐに帰りますが」
グロウは唸って腕を組み、フィルドとサラは顔を見合わせた。
そのとき、エリウスが部屋の暗がりから現れ、領主一家の前に立った。
「皆様方があまりに熱心なので、つい。ご領主様が立ち会いをお許しくださるならと申し上げました。私はどちらでもよろしい。しかし、もしお嫌なら……」
――この人たちは本当に、事の重大さがわかっているのだろうか。
不安よりも期待に目を輝かせている人々の顔を見て、フィルドは内心呆れ返った。
三日前、エリウスとグロウがこの男も含めた都の主だった者に事情を話してから今日までの間、この都を離れたのはもともとこの都の者ではなかった者たちばかりだった。
危惧していたような混乱も反発も起こらず、それだけでフィルドたちは胸を撫で下ろしたのだったが、それは単に彼らが事態をよく理解していなかっただけのことなのかもしれない。
エリウスは必ずしもサラが妖魔に選ばれるとは限らないとフィルドたちには言っていたが、彼らにはそう言っていなかった。おそらく、ここにいる人々は単純に、サラが妖魔の花嫁となってこのファスベルを救ってくれるのだと思いこんでいる。つまり、彼らは自分たちは多少安全だと思ったからここに来たのだ。
この都の者は、フィルドを含めて妖魔を知らない。当然、召喚術なども知らない。この都の行く末が気にかかったというより、単に物珍しさから見学にきただけではないのか。彼らの言うこともまったく嘘ではないだろうが、しょせん他人事だ。
「それは父ではなく、サラに訊いてください」
まだ悩んでいる父より先に、フィルドはそう言った。
「今宵、ここからいなくなるかもしれないのは、父ではなく、このサラです」
フィルドの声は淡々としていたが、人々の高揚感を罪悪感に変えるには充分すぎた。彼らはさっと顔色を変えると、恥じ入るようにうなだれた。
グロウとサラは、あっけにとられたようにフィルドを見ている。
エリウスだけが、面白そうに笑っていた。
「若様……申し訳ございません……」
なぜか人々は、サラでもグロウでもなく、フィルドに対して頭を垂れた。
「若様のお気持ちも考えず、ご無礼を……」
「私に謝られても困ります」
かえってフィルドのほうがあわてた。なぜに彼らはサラにではなく、自分に対して詫びるのか。
助けを求めて妹を見ると、サラはまだ驚いた顔をしていたが、フィルドの視線に気づいて少し笑った。
「私はかまいません。父様も、よろしいですね?」
「あ、ああ……おまえがそう言うのなら……」
ほっと人々は安堵の溜め息をついた。サラやグロウの許可を得られたからではない。フィルドの意向に添うことができたからだ。
この都の人々は、公言こそしないものの、領主たるグロウよりも、その息子のフィルドの不興を買うことを何よりも恐れていた。普段、温厚なだけに怖いのだ。彼の金の瞳で睨まれると、それだけで胸が張り裂けそうな心地がする。
フィルドは母の腹の中にいたときから次期領主の座を約束されていたが、その上に、人々に盲目的に従いたいという欲求を起こさせる希有な資質も持ち合わせていた。
都の民は、彼がいつかこの都の領主になることを、太陽が必ず東から昇ってくるのと同じように疑ったことすらない。むしろ、その日を心待ちにしているといってもよかった。
現領主グロウに対して、特にこれといった不満があるわけでもない。ただ、フィルドは生まれながらにして支配者であり、人々は無意識のうちにそのことを知っていた。それだけのことだった。サラが妖魔への捧げ物にされることは、それによってフィルドが悲しむが故に、彼らにとっても悲しむべき出来事なのだ。
しかし、そのことをはっきりと把握できている者は、現段階では、外から来た者――エリウスのみであった。彼はフィルドに哀れむような視線を投げてから、今宵の主役になるであろう彼の妹に向き直った。
「さて、サラ様。覚悟はよろしいか」
はっとサラは息を呑み、静かにうなずいた。
「はい」
声は決して大きくはなかったが、揺るぎはなかった。
「こちらへ」
エリウスは彼女の手をとると、昼に描いていた一回り小さな魔法円の中へと導き入れた。
「よろしいですか。これから私が出てもよいと言うまでは、決してこの円より外に出てはなりませぬ。たとえ何があろうともです。お約束いただけますか?」
「もちろんです」
緊張した面持ちながら、サラはしっかりと答えた。それを見届けてから、エリウスは今度は無責任な観客たちのほうを向いた。
「皆様方も。その扉から外に出ていくことはいっこうにかまいませんが、その線より中へ入ることはなりませぬ。もし破れば、いかな私といえども命の保証はいたしかねます。よろしいか」
彼らは声もなく、ただうなずいた。
エリウスに指摘されて初めて気づいたが、二つの魔法円を取り囲むように、さらに線が引かれていた。昼間にはなかったから、フィルドたちがサラの部屋にいる間にエリウスが描いたのだろう。
人々がここに来たことを後悔しはじめているのを感じて、フィルドは少しだけ小気味よく思った。すぐにそんな自分が嫌になったが。
「それではこれからしばらくは、お静かに願いますぞ。決して何があろうともです」
もちろん人々に否などなく、今度も無言でうなずくばかりだった。
エリウスはサラのいる魔法円の前に立つと、何かを計るように空中を見すえてから、杖で床を突いた。
静まりかえった室内に、その音はことさら大きく響き、人々はびくりと身を震わせた。
「黒き闇より生まれし者よ。永劫の夜を統べる偉大なる支配者よ。我は汝を欲する者。我が声が聞こえなば、直ちにここへ来たりませ」
エリウスの朗々とした声は、それだけでも人を荘厳な気持ちにさせた。
東の果てファスベルの民は、これが妖魔召喚の詠唱であることを忘れ、老魔術師の声に聞き惚れた。
そのため、床が小刻みに震えはじめていることに彼らが気づいたのは、大広間の隅に片づけられた椅子がカタカタと鳴り出してからだった。
(来る)
漠然と、しかし、強くフィルドは思った。何かはわからない。だが、とてつもないものが来る。
自分はともかく、人々をどこかへ逃がしたほうがいいのではないかと思ったが、食い入るようにエリウスを見つめる彼らの耳には、もはや何を言っても入らないように見えた。
揺れはさらに大きくなっていた。どこからか風も吹きこんでいるのか、エリウスの灰色の長衣が大きくなびいている。しかし、奇妙なことには、そのすぐそばに立っているサラの純白の服はそよともせず、その周りにいる彼らにも、風の流れはまったく感じられなかった。現に、壁に設えられた燭台の炎も、消えるどころか揺れることすらなかったのである。
そのとき。
大地が軋み、空が裂けた。
サラの向かいにある、大きな魔法円の上。
何かが、闇から生じようとしていた。
風はもはやエリウスを吹き飛ばさんばかりの勢いになっていたが、彼は杖を支えに何とかこらえていた。だが、今人々の目を釘付けにしていたのは、風の中心にあるもの――大きな魔法円の中にいるものだった。
「おや。知った声が聞こえると思えば」
明らかに、エリウスのものではない声。
若い男の、よく響く低い声。
「エリー坊やじゃないか。妖魔嫌いのおまえが妖魔を呼ぼうとするなんて、いったいどうした風の吹き回しだ? ……おっと、吹き回しているのは私か」
おどけたような男の声を合図に、風は――サラやその周りにいる人々には最初から感じられなかったが――ぴたりと止んだ。
今までまともに息もできなかったのか、エリウスは大きく喘いだ。その様子を見ながら、フィルドはなぜエリウスは自分のためには魔法円を描かなかったのだろうと奇妙に思った。召喚者は自分のためには一つしか魔法円を描いてはならない決まりでもあるのか。それもいつかエリウスが言ったように、魔術師になればわかることなのかもしれないが。
「おまえだったのか……!」
まだ息は乱れていたが、エリウスの呆然とした声は、はっきりと聞きとれた。彼がこんなふうに話すのを、フィルドはこのとき初めて聞いた。
「だから、私が召喚しなければならなかったのか!」
「また、見てはならないものを見たのだな、エリー坊や」
若干だが、男の口調には哀れむような気色が含まれていた。エリウスとは顔見知りであるらしい。彼が〝坊や〟だった頃からの。
「人の身で難儀なことよ。何も見えねば来ない明日も信じていられように」
魔法円の内側に立っていた者。
それは、人間だった。
そうとしか、思えなかった。
魔術師風の黒衣を着た、長身の男だった。むしろ、魔術師だと言われたほうが、人々は納得しただろう。
髪は長い。腰を覆うほどある。ここには燭台の炎しか光源がないので、色は判然としないが、おそらくは褐色だろう。顔はエリウスのほうを向いていたため、すぐに逃げ出せるよう扉の周囲に集められている人々のほうからは見えなかった。サラならば見えていたはずだが、そのせいなのか、彼女は硬直したまま、身じろぎ一つしていなかった。
「で? エリー坊や。なぜ今になって妖魔を呼ぶ?」
一転して、男はからかうような調子になった。
「妖魔のほうから契約を持ちかけられても、決して応じようとしなかったおまえが、なぜ?」
「……流れを変えるためだ」
やっと落ち着いたのか、エリウスは普段の平静さを取り戻していた。しかし、それはフィルドの知る快活な老魔術師のものではなかった。
「流れ?」
「ああ。それを変えるためだけに、私は今ここにいる」
「面白い」
男は笑ったようだった。
「では、もうその流れとやらは変わったのか?」
「……いや。まだだ」
「ほう。私がここへ降りただけでは足りないわけだな。――私に何をしてほしい?」
「契約を」
「坊やとか?」
「いや。この都――ファスベルとだ」
人々が一斉に息を呑んだのがわかった。彼らは今、ようやく理解したのだろう。この妖魔召喚の意味を。
エリウスを坊や呼ばわりする男も、これにはさすがに面食らったようだ。すぐには返答がなかった。
「ますます面白い」
妖魔は興じることを好むという。この男も、その点では例外でないようだった。
「さすがエリー坊や。途方もないことを思いつく。人とではなく、都と契約しろとはな。しかし、その都が私に何をしてくれる? ただ働きは性に合わんぞ」
そろそろ話は本題に入りつつある。この男にファスベルの守護をさせるかわりに、ファスベルは代償を支払わなければならない。
凍りついたように動かない妹を、フィルドは沈痛な思いで見つめていた。彼女は今、どれほどの恐怖に耐えていることだろう。今はただ、エリウスが少しでも有利に交渉を進めてくれることを祈るしかなかった。
「ただとは言わぬ。風魔の王よ」
これから自分が言わねばならないことを知っているエリウスの声は、暗く沈んでいた。
「ファスベルは、おまえに代価を支払う」
「そうか。だが、それがそこにいる娘なら、私はいらん」
今度こそ、人々は声を出さずにはいられなかった。
落胆。失望。恐怖。
だが、フィルドとグロウだけは、こっそり安堵の溜め息をついていた。
とりあえず、彼らの家族は、妖魔には奪われなかったのだ。
できることなら、さっさと魔法円の中から引き出したかったが、まだ交渉は終わっていない。むしろ、難しくなっていた。
「代価というなら、おまえのほうがよほどいいぞ、エリー坊や」
領主一家にとっては、複雑な心境に陥りそうなことを男は言った。
「おまえなら、私の想像もつかないことをしでかしてくれるだろうからな」
「私では、この都の支払う代価にはなるまい」
領主一家に気を遣ったわけではないだろうが、エリウスの回答は淡々としていた。
「おまえには、この都の守護を務めてもらいたいのだ。この世から、大地が消えてなくなるまで」
「なるほど。それではおまえは代価にならぬな。だが、その小娘でも釣り合わぬ」
男は、切って捨てた。
「その娘を失っても、この都は痛くも痒くもないだろう」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
気づいたときには、フィルドは父をはじめとする周囲の人々によって動きを封じられていた。
「いけません!」
小声で使用人の一人が囁いた。
「あなたは行ってはいけません!」
「しかし……!」
あの男は、かけがえのない妹を侮辱した。
「こらえろ」
フィルドよりも屈強な父は言った。
「おまえが飛び出したところで、どうにもならん。さらに話がこじれるだけだ」
「……結界を張っているな」
男はフィルドたちのいるほうをちらりと見やった。フィルドたちは思わず身をすくませたが、男はすぐにまたエリウスのほうを向いてしまった。
「この期に及んでまだ隠すか。往生際が悪いぞ、エリー坊や。私相手ではすべてが無意味だともうわかっているだろうに」
男は魔法円から一歩足を踏み出した。同時に円から炎が噴き上がったが、男の服や髪を焦がすことなくすぐに消えた。
フィルドには魔術のことはわからない。しかし、おそらくあの大きな魔法円のほうは、呼び出した妖魔を拘束するためのものであったはずだ。
――すべてが無意味。
今度こそ、ここから人々を避難させるべきではないのか。
反射的にエリウスを見たとき、男がこちらを振り返った。
「そこだな」
動けなかった。
男が静かに歩み寄り、何の迷いもなくフィルドの腕を取って、たやすく自分のほうへ引き寄せるまで。
そのまま、ダンスのステップでも踏むようにフィルドを導き、焼け焦げた魔法円の上に立つまで。
フィルド以外の人間は誰一人、動くことができなかった。
「ごきげんよう」
男は薄く笑うと、フィルドの顎に指を添えて顔を上げさせた。
「そなた……名は何という?」
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