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第1章 契約 (1)人身御供
「私は反対です!」
澄んだ蜂蜜のような目をいからせて、フィルドは椅子から立ち上がった。
ファスベルの領主グロウの長子である彼は、普段は温厚で滅多に声を荒立てることのない十六歳の少年である。ましてや、父であるグロウにそのような態度をとったことなど皆無であった。
それだけに、怒れば並みの人間以上に迫力がある。とっさに執務机をつかんで太い首をすくませたグロウは、上目使いで息子を見やった。
「しかしな、フィルド。このファスベルの周りの都は、ことごとく妖魔どもにやられている。うちが襲われなかったのも、たまたま運がよかっただけだ。荒らすものがなくなれば、今度こそ奴らはここを襲ってくるだろう。そうなってからでは遅いのだ」
「それは私にもわかります」
少し冷静さを取り戻したか、フィルドは軽く溜め息をついた。
この都の人々は、ほとんどが金か褐色の髪をし、様々な色の目を持つ。しかし、領主一族だけは、代々闇のような黒髪と猫のような金瞳を備えている。それはこのフィルドも例外ではなかったが、彼はさらにその亡母――前領主の娘だった――の美貌も受け継いでいた。息子とはいえ、褐色の髪と灰色の目をしたグロウが強く出られないのも、それが一因であった。
「だからといって、妖魔から身を守るために妖魔を召喚するなど、本末転倒です。妖魔がそんな馬鹿げた契約に応じるものですか。すべてを奪われ、殺されるのが落ちです」
フィルドが言うことももっともだった。人と交渉ができるほど知能の高い妖魔は、その知能を使って人を騙すことも容易くできる。グロウもそのようにして妖魔に騙され滅びた都の名を知っている。だが、それでもなお今回はそうせざるを得ない理由があった。
「だが、ここで手をこまねいていても、奴らは必ずやってくる。人の力では妖魔には勝てん。あの大魔術師ランバルド様でさえ、妖魔どもになぶり殺しにされたではないか。妖魔に勝てるのは、妖魔だけなのだ」
「その妖魔が、私たちを守ってくれるという保証がどこにありますか?」
フィルドは冷ややかにグロウの痛いところを突いた。
「いえ。その妖魔が、一つの都を妖魔から守りきれるほど強大であるという保証が、どこにあります?」
グロウは唸りながら、執務室の隅に顔を巡らせる。
そこには、薄汚れた灰色の長衣に身を包んだ老人がいた。節くれだった杖を抱え、背もたれのある椅子に身を預けたまま、領主親子の言い争いを面白そうに傍観していた。
「エリウス様! どうかあなた様の口から直接この愚息にご説明ください!」
「愚息などとご謙遜なさいますな。あなたのご子息は、まことに正しいことをおっしゃっておられる。さすがは知恵の光神フィランディアの名をお持ちなだけのことはありますな」
エリウスは白い髭に覆われた顔いっぱいに笑みを広げた。その天真爛漫ぶりにグロウは呆れたようだったが、フィルドは逆に少し笑った。
フィルド自身はこの老人に悪感情は持っていなかった。気に食わないのはあくまでも、その提案のほうなのだ。
「左様。この老いぼれの召喚術に、どんな妖魔が応じてくれるかは私めにもわかりませぬ。たとえ応じてくれたとして、この都を他の妖魔から守りきれるほど強いかどうか」
「それなのに、なぜあえてやろうとするのです、エリウス様」
フィルドは緩んだ顔を引き締めて、この大陸で五本の指に入るという魔術師を睨んだ。
エリウスは怖い怖いというように肩をすくめたが、彼が本気でそう思っているわけではないことは、フィルドにもグロウにもわかった。
「今だからですよ、フィルド様。星の巡り合わせというやつです。何が召喚されるかはわかりませぬが、今ならばこの都は滅びずに済みます。なぜそれがわかるのかをお知りになりたければ、魔術師になることですな。あなたにはその素質がありそうだ」
「召喚後も命があれば考えましょう」
おざなりにフィルドは答えた。
「師の先見の確かさは、私もお噂で存じております。しかし、それなら何が召喚されるのかもおわかりではないのですか?」
「残念ながら、そうしたものでもないのですよ。このエリウスがわかるのは、大きな流れだけです。今、召喚を行えば、この都は滅びませぬ。それだけはこのこ汚い首をかけても断言できます。ですが、何ゆえに滅びぬのか――つまり、召喚された妖魔がこの都を守護するが故に滅びぬのか、それとも他の何かが起こるから滅びぬのか、それはわかりかねる。そういうことでございます」
「では、もし今妖魔を召喚しなければ、この都はいつ滅びるのか。それはおわかりですか?」
フィルドの冷然とした声に、エリウスはなぜか嬉しそうに青い目を細めた。グロウは先ほどからはらはらした様子で、息子と老魔術師のやりとりを見守っているばかりだ。
「本当に、聡明なお方だ。将来はさぞや立派なご領主になられましょうな。――左様。それは私めにもわかります。ですから、父君は急いでおられるのです」
「父上?」
なぜそんな重要なことを先に話さないのか。フィルドがグロウに非難の目を向けると、さすがにグロウもそれを話す前におまえが切れたからだと睨み返してきた。
「五日後に、妖魔どもがやってくる」
淡々とグロウは言った。
「エリウス様は、そうおっしゃった」
フィルドは金の瞳を見張ってエリウスを見つめた。
その視線を受けて、エリウスは重々しくうなずく。
「左様。今、召喚術を行わなければ、この都は五日後の夜に妖魔に襲われ、この世から完全に消え去ります。しかし、召喚術を行えば、理由はどうあれ、滅びずに済むのです。この地上に何が起ころうとも、この都の歴史が途切れることはないでしょう。私めはそれをお伝えするために西からまいりました。この都の存続は、あなた方だけでなく、この世界全体にも関わることなのです」
エリウスの説明を聞いても、フィルドの不信感は消え去らなかった。
この都には、まじない程度のことしかできない魔術師しかいなかった。そのため、根本的に魔術というものが信用できないのだ。
それでも、なぜか妖魔に襲われなかった東の小さな都。それがファスベルだった。
「お話はわかりました」
しかし、フィルドは不本意ながらそう答えた。
「とにかく、召喚術を行えば、ここは滅びずに済むのですね? 誰一人殺されず、奪われることもないのですね?」
「然り。殺されはしません。しかし、奪われる」
老魔術師の言葉にフィルドは目を剥いた。すでに知っていたのか、グロウは驚かなかった。
「何と?」
「人身御供が必要です。一人。この都で最も古い血を持つ者が」
「古い……?」
そう呟いたのもつかのま、フィルドはグロウを振り返った。
「まさか!」
「サラにはもう話した」
フィルドと視線を合わせることなく、グロウはぼそりと言った。
「あの子は……承知したよ。それで皆が救われるのなら、と」
フィルドは最後まで聞かなかった。身を翻して退室しようとした。
「フィルド!」
「わかっています。もう反対はしません」
足は止めたが、フィルドはグロウを顧みなかった。
「ですが、住民にはどう説明なさるおつもりですか? 彼らは容易には納得しないでしょう」
「納得しようがしまいが、実行はする」
その一言には、たとえ小さくとも一つの都を支配する領主の傲慢さがあった。
「今夜、主だった者を集めて話すつもりだ。おまえも同席しろ、フィルド」
「……わかりました。でも、今はしばらく一人にさせていただけませんか。これ以上、あなた方と顔を合わせていたら、とんでもないことを口走ってしまいそうです」
「フィルド……」
「失礼いたします」
口だけは丁寧にそう述べて、フィルドは執務室を去った。
その後ろ姿を見送ってから、グロウは困惑した顔をエリウスに向けた。
「まことに申し訳ない。私の口から言うのも何ですが、あれは普段は物わかりのいい、私には過ぎるほどの息子なのですが……」
「いやいや。フィルド様がお怒りになるのも当然です。自分たちが助かるために妹君を犠牲にしなければならないなど、あの方の性格ではとても許し難いことでしょうからな」
「……どうしても、あの子でなくてはいけないのですか」
疲れきったようにグロウは呟いた。
「あの子はまだ、十三歳になったばかりです」
「必ずしも、選ばれるとは限りませぬ」
老魔術師は杖に体重をかけるようにして立ち上がった。
「ですが、人身御供を用意するなら、この都の領主であるあなたのご息女がいちばんふさわしい。都の民は、誰もあなたを憎まない。――それがわかったから、フィルド様はもう反対なさらなかったのですよ」
呆然と見返すグロウに、エリウスはかすかに笑った。
「召喚は三日後の真夜中に行います。それが星の巡り合わせですので」
*
この大陸に住む人々の大半は、各地の都市に属している。
当初、各都市は国王に任命された領主によって支配されていたが、いつしか国王の存在はあってなきがごときものとなっていた。今や都市はそれ自体が国であり、その地を治める領主はその王である。ただ昔からの慣習から、領主と呼ばれているにすぎない。
そんな都市の一つファスベルを、大魔術師エリウスが訪れたのは、昨日の昼前のことだった。
先見ができることで名高いこの魔術師は、ファスベルよりはるか西の都に住んでいたが、一人の供も連れず、たった一人で長い旅をしてきたのだった。
妖魔が跋扈するこの時代、一人旅は自殺行為と言えた。エリウスが無事にファスベルに到着できたのも、その先見の才によるものなのかもしれない。
領主グロウをはじめ都の民は、この大魔術師の突然の来訪を歓迎したが、彼は祝宴を辞退すると、グロウと二人だけで話したいと謁見を申し出た。
そこまではフィルドも知っている。執務室から出てきた父の顔が、かつて見たことがないほど暗く強ばっていたことも。
しかし、何を話したのかとフィルドが訊ねても、いずれ話すと言ったきり、まともに答えようとはしなかった。
おそらく、父も悩んでいたのだろう。多少頼りないところもあるが、あれでも一つの都を預かる者である。
それでも、せめてサラに話す前に、自分に相談してほしかった。あるいは、サラに話すときに、一緒に呼んでほしかった。
確かに自分は若輩である。だが、サラはたった一人の妹だ。家族なのだ。自分には事後承諾というのは、あまりにも薄情すぎないか。
「兄様!」
フィルドが入室すると、サラは長い髪を揺らしながら、椅子から立ち上がった。
フィルドより三歳下の彼女もまた、見事な黒髪と金の瞳の持ち主だ。代によってはそうではない者もいるのだが、この兄妹は領主一族の血が濃く出たようだ。
「いつ聞かされた?」
サラが何か言う前に、フィルドは口早に訊ねた。
「何を?」
フィルドは周囲に人がいないことを確認してから、苛立ちを隠しきれない声で答えた。
「おまえが、人身御供になる話をだ」
「ああ……そのお話」
意外にも、サラの反応はあっさりしていた。
「今朝よ。兄様はそのとき、商人たちと話をしていたわ」
「あのときか。俺を遠ざけるために、わざと俺に対応させたな」
舌打ちしながら、フィルドは頭を掻いた。
彼は妹や親しい者の前では〝俺〟を使う。父親には敬語で話すのは、まがりなりにもこの都の領主だからだ。そういう使い分けがフィルドは得意だった。
「兄様は、いま聞いたのね?」
「ああ。最初から俺の意見などどうでもいいから、今頃話したんだろう」
そう。すべてはすでに決定していた。フィルドがどれほど反対しても、妖魔の召喚は行われるだろう。あの老魔術師の言葉にしか根拠のない召喚が。
「仕方ないわ。そうしないと、この都が滅びるというんだもの」
サラは小さく嘆息して、再び椅子に腰を下ろした。
「本当かどうかわかったものか」
吐き捨てるように答えて、フィルドも近くの椅子に座る。
「他の魔術師が言ったならね。でも、エリウス様は違うわ。兄様も聞いているでしょう? あの方の先見がはずれたことは、ただの一度もないわ」
「あれだけ曖昧なことを言っていれば、それははずれはしないだろうよ。俺が信じたのは、この都を妖魔が襲うという一点だけだ。それが五日後かどうかはわからないが」
「……本当に、妖魔は来るのかしら」
サラは顔をしかめて、自分の体を両腕で抱いた。
「今まで、来ないほうがおかしかった」
フィルドは額を覆って、深い溜め息をついた。
「本当に、どうして急に妖魔が都を襲うようになったのか……」
それはこの時代に生きる者なら、誰もが思う疑問だった。
太古の昔より、人外のもの――妖魔は存在していた。その種類は多種多様で、虫と変わらないような下等なものもいれば、人と見まがうばかりの高等なものもいる。
しかし、彼らは人間とは違い、集団を形成することがなかった。それゆえに、人間が力を合わせれば、何とか対処することができていたのだ。
それに変化が起こったのは、三年ほど前。
妖魔が徒党を組んで、都の一つを襲った。
生き残った者は一人もいなかった。妖魔たちは都の民をなぶり殺し、食らい、うち捨て、彼らが長い年月をかけて作り上げたものを、ほんの数時間で破壊し尽くした。
それを知った他の都の人々は恐怖し、自らの命と財産を守るための手段を講じた。
厚く高い壁を築いた都もあったし、屈強な傭兵を雇った都もあった。妖魔をよく知る魔術師を招いて結界を張らせた都もあった。
だが、そのすべてが徒労に終わった。人間たちの努力を嘲笑うかのように妖魔たちは壁を飛び越え、傭兵や魔術師を食い殺した。
どういう基準で襲っているのか、それも人間たちにはわからない。彼らにできたのは、襲いくる妖魔たちをいち早く発見することと、速やかにその都を捨てて逃げ去ることだった。
この三年間で都の数は半分以下に減っている。都を捨てた人々は、他の都に逃げこもうとするが、快く受け入れる都は少ない。ほとんどの場合閉め出され、小さな集落を作って細々と生きることになる。
このファスベルは例外のほうで、都民にはしないが、難民としてなら居住を認めていた。そのための出費はかさんだが、彼らから妖魔の情報を得ることはできた。
妖魔たちは何も生み出さない。ただ破壊していくだけだ。まるで陣地取り遊びをしているかのように、かつて人間が住んでいたところを、黒く塗りつぶしていくだけだ。
今日は来なかった。でも、明日は来るかもしれない。
生き残った人々の間では、そんな恐怖に怯えながら暮らすのが、当たり前のようになっていた。
「私は、エリウス様を信じるわ」
サラは自分を抱きしめるのをやめ、顔を上げた。
フィルドよりも優しい面差しをしたサラは、思いつめたような目をしていた。
「いえ……信じたいの。危険を冒してわざわざここまで来てくださったのだから、あの方の言うことは正しいのだって」
「俺だって、できれば信じたい。でも、だからっておまえが――」
「必ずしも、私が選ばれるとは限らないとエリウス様は言ったわ」
無理に笑顔を作って、サラは答えた。
「だから、兄様。私は大丈夫」
「サラ……」
フィルドは眉をひそめて、たった一人の血を分けた妹を見つめた。
「エリウス様は、殺されることはないって……」
そう言いかけたサラの顔が、突然歪んだ。
「兄様!」
彼女は叫び、椅子を飛び出して、兄にしがみついた。
「嘘よ……平気じゃない……私、怖いの……とっても怖い……」
「当たり前だ。誰だって怖い」
フィルドは妹を抱きしめて、艶やかな黒髪を撫でた。
「殺されなきゃいいなんてことはない」
妖魔の召喚がどのように行われるのか、フィルドは知らない。だが、契約の代償として捧げられる人身御供が、妖魔からどのような扱いを受けるのかは彼にも想像はついた。
――妖魔の花嫁。
否。妖魔にとっては、ただの玩具だ。
代われるものなら代わってやりたいと痛切にフィルドは思った。この妹はまだ十三歳になったばかりだ。古い血が必要というなら、同じ領主の子である自分でもいいはずだ。妖魔に性別はないと聞くのに、やはり男よりも女のほうを好むのか。
「兄様……」
「召喚には、俺も立ち会うから」
自分がいたところで、何の助けにもならないだろうが、妹を奪う妖魔の顔は見てやりたい。いつか自分が滅ぼしてやるために。
優しい兄の腕の中で、サラは長い時間、か細く泣きつづけた。
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