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チェット・ベイカーの気怠く少し投げやりな歌が流れていて、その場に居合わせた人たちも、ああ今日も疲れたなと、一日の終わりを思い出すような表情をしていた。
「近くにこんなお店があるの知らなかった」
「僕も最近知ったんだ。夜更けまでやってる喫茶店って珍しいからね。カフェイン中毒には有難いよ」
「珈琲たくさんあるけど、どれがおいしいんですか」
「僕は断然モカなんだ。雪ちゃんは紅茶党だったね」
「私はこれにします。蜂蜜入りのロイヤルミルクティー」
彼がこどもに対するような顔で笑ったので、私は少し自分の注文を後悔した。やっぱり珈琲にしてみたら良かったかな。
大学時代はいつもジーンズばかりだったのに、たった三ヵ月で随分スーツが似合うようになったんですね。なんだか大人みたい。
初めて会った時に、周りの人たちにからかわれたのを覚えていますか。
「雪って名前なんだ。じゃあ、こいつと結婚したら面白いね。行平雪。ゆきひらゆき。まるでフジコフジオみたいだな」
二つのカップから離れた珈琲と紅茶の湯気は、空中で羨ましい程に溶け合って上昇していった。
「新人全体の研修がやっと終わってね、配属が決まったんだ」
「希望通りだったんですか」
「いや、それがね、顧客相談課。あまり人への対応は得意じゃないんだけどな。まあ、今は全てが経験になると思ってるけど」
私は会社の人はちゃんと見ていると思う。人と話すのは苦手だと言うけれど、言葉を一つずつ誠実に折り畳むような話し方をする彼は、いつも周りから好感を持たれていた。女の子の機嫌を取ろうとしてわざとふざけた態度ばかりのサークルの男の人たちの中で、彼は信頼できる数少ない人の一人だった。
「昨晩、すごくいい夢を見たんだ」
そう言って少し目を細めて笑ってみせる。この笑顔を見る時、私は本当にこの人がすきだと思う。あまり長い時間、正面切って見つめられはしないけど、この瞬間をずっと大切に取っておきたい。忘れないように記憶の底に焼き付けたい。
「だけど、どんな夢かは秘密だよ。いい夢は人に話すと効力が無くなるんだって」
今日はいつになく近くなれたような気がして、その店が特別な喫茶店になった。
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