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 その絵の前に立った時、花の匂いがした。しかし絵から香りが立つはずはないと、視線を左右と後ろに振って、二つの花器に活けられた切り花と、五つある胡蝶蘭の鉢植えを確認した溝口渉(みぞぐちわたる)は、 (ああ、これか……)  と納得すると同時に、なぜ今まで気づかなかったのだろうと疑問に思ったが、すぐにどうでもよくなって、絵画に眼差しを戻した。  描かれているのは風景画。池なのか湖なのか、水辺に植物が生い茂っている。青と緑が全体を覆っていて、所々に暖色の花が咲いている。特別絵画に造詣が深いわけではないが、『春』と書かれたタイトルの下に、聞いたことのある気がする絵画コンクールで賞を受賞した作品であることが紹介してあるのを読まなくても、技術的に優れているのだろうというのはわかる。ただし、美しいと表現できるその絵は、渉に何も考えさせてはくれない。 (虚無。空っぽではないんだけどな)  伝わってくるのは、「何もない」ということ。空と大地と水と草花。それは確かににそこに存在している。でも、それを見て描いた人間の感情が何も伝わってこない。ただ、平穏な春が切り取られて、額縁の中に収まっている。それは、常に頭の中で感情と言葉が溢れている渉に、「無」の時間を与えてくれた。しかしそれも一瞬のことで、隣に彼と同年代と思しき女子二人が立ち止まった時点で、その、意外と心地の良かった時間は打ち切られてしまう。 「すごい、綺麗だね」 「うん。この、湖に空と周りの花とか映し出してる感じ、すごい好きかも」 「あー、うん。いいねー」  すぐそばで、一応気をつかってか、小さな声で交わされる会話だが、耳をそばだてていなくても一言一句聞き取れてしまう。  彼女たちが言っている「湖」には、晴れた空に浮かぶ雲と、水際に咲くいくつかの花と、緑の草木の色が少し濁ったような水面に散らばっている。水面は風を受けているのか、微かに揺らいでいる。 (何がどう「いい」んだろう?) 「あとさ、なんか、透明感あるよね?」 「あ、わかる。透明なはずの空気までも描かれてるみたいな」 「そうそう」 (………。今のって、会話成立してるの?)  画家が何を描こうが自由だし、受け取る側が何を感じて何を語ろうが、それも自由だ。  渉はゆっくりとした足取りで、次の絵画へ移動する。
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