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 黄色地に水色のような緑のような小さな模様が散りばめられた大きな花瓶に、赤紫と青紫の紫陽花が活けられた絵だった。 (昔の、中国の有名な花瓶みたい。触りたくなる)  向かって左から差し込む光を受けて艶めく花瓶が、グレーとベージュを合わせたような色の背景に映え、木目の浮き出たテーブルの色と溶け合っていない。四つの大きな紫陽花の花はすべて開き切り、下に付いている葉っぱを隠しそうなほどに咲き誇っている。タイトルは『水替えの後』 (紫陽花の、生命力の強さを描きたいんだね)  紫陽花が生き生きとしている。花瓶に当たる光は暖かそうだ。そしてやっぱり、作者の感情は過ぎるほどに静かだ。静物画だからとか写生だからとか、そういうレベルじゃない。 (こんなにも、感情がないアーティストって初めてだ)  絵画も音楽も、感情の発露の手段だから、それらを作る人たちの感情はその作品から溢れ出ていることが常なのに、この作者の描く絵画からは、それらが一切聞こえてこない。それはこの作者が下手だから何も伝わってこないのではなく、作者自身が何も感じていないから伝わってこないのだ。ではなぜこの作者は、絵を描くのだろう。何も動いていない感情で世界を描くことに、意味があるのだろうか。 (ていうかそもそも、こんなにも感情を動かさない人間って存在するもんなんだ)  まだ『春』の前にいる女子二人が移動してこないうちにと次の絵に移るとそこには、まっすぐにこちらを見てくる男性の胸部から上が描かれた絵があった。  デューラーのような自己主張もなければ、レンブラントやプッサンのように理論や美学をそこに描いているわけでもないが、タイトルを見る前に、これは自画像だと直感が告げる。そこには、硝子玉を埋め込んだみたいな眼があって、ひたすらにその男性の虚無を見せつけてくる。 (なんかちょっと、怖くなってきた……)  絵から眼を逸らし、図らずもそのタイトルを読むと、『人間失格』とあった。 (おいおい)  自分でそれを言うのかと呆れる反面、的を射たタイトルだと感心もする。でもそこでもう一度その絵を見てみようという気にはならなかった渉は、早々に次の絵画へと移る。
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