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 人が二人、描かれている。一人はぞっとするような美貌で男女の区別がつかない。そのユニセックスな人物は、前に立つ青年の片耳に何かを囁き、囁かれている青年は、その顔に恍惚の表情をのせている。その容貌は、どことなく、隣の『人間失格』の青年に似ている。 (これ、なんか、駄目だ)  渉は、心拍数を上げ出した心臓の辺りを右手で押さえ、眉間にしわを寄せる。  初めてこの作者の感情が渉の中に入ってきたと思ったらそれは、到底受け止めきれるものではなかった。強くて、深くて、たぶん暗い。底も天井もない、得体のしれない恐怖が渉に向かってくる。  早く眼を逸らしてこの場を立ち去らなくてはと思うのに、何故かそれができない。 (引っ張られる。ヤバいって……)  囁く人物のわずかに歯を見せながら弧を描く唇から紡がれる言葉は、どんな音がしているのだろう。聞きたいと思うのと同じ強さで、聞いてはいけないと心の中で警鐘が鳴り響く。  怖くて苦しいのに、ずっと見ていたくて、いっそこの絵の中に入っていってしまいたくなる。もしそれができたら、この青年と同じように後ろからの囁きを聞いて、同じように法悦の中に身を投じることができるのだろうか。 (ダメだ。ぼくはまだ、そっちに行きたくない)  でも、眼は逸らせない。 「随分熱心に観てくださってますね」 「!!」  突然後ろから掛けられた声に驚いた渉は、微かに身体をビクつかせ目を見張ってから、上半身だけ振り返った。そのおかげでようやく、目の前の絵画から意識を逸らすことができた。  後ろに立っていたのは、自分の親よりも少し上の年齢と思われる男性だった。光沢のあるグレーのスリーピーススーツを着こなして微笑みを浮かべている彼からは、ハイソサイエティーに属する人間特有の余裕が滲み出ている。人の眼を躊躇うことなくまっすぐに見つめることができるのは、自分という存在そのものに自信があるからだろう。 「その絵、気に入っていただけましたか?」  身体ごと彼に向き合った渉に笑みを深めて尋ねてくる声は、落ち着いていて心地の良い響きを持っている。隣の絵に移動してきていた女の子二人も同じように思っているのだろうか、絵を見ていた視線をちらちらと彼の方に向けてきた。渉は、彼女たちの存在を気にしながらも反応は見せず、目の前の男性に答える。――正直に。
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