海辺を走る

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☆  陽造は、もう三十年余り、和歌山市から大阪の難波へ通勤している。  朝、難波行き急行に乗るとき、陽造の座る場所は決まっている。  最後尾車両の、進行方向に向かって右側のシート。  その路線は大阪府南部を北上するので、車内では、東に背を向けて、西に面した車窓の景色を眺めることになる。  大阪に入って初めの急行停車駅みさき公園を出てしばらく走ると、車窓に、海が広がる。  大阪湾だ。  対岸には、淡路島の低い山並み。右手に六甲山系がつらなり、大きな湖のような海だ。  おだやかに凪いだ海面に、こまかい陽光がきらめいて、明るい眺めだった。対岸の山並みは、夏は濃い緑に燃え、冬は深い紺色に沈み、空気の澄んだ日には神戸の街が見える。  海辺のすぐそばを走ってその景色が広がるのは、ほんの一分足らずの間だ。  陽造は、その間だけは、スマートフォンや本から顔を上げて、海を見る。一日の始まりの、楽しみというのか、習慣というのか、光が車窓に満ちていて、自分の心も明るく、穏やかになるのだった。 ☆  その秋の朝も、列車が海辺を走りはじめると、陽造は車窓に広がる海を眺めた。前日の台風一過、海面は静かさを取り戻し、高い空を映 して清々しい青に染まっている。  秋が深まってきた。陽造にとっては最後の秋の海だった。この眺めを心に刻んでおこうと見つめていた。  ふと視線を感じた。  鋭い視線だ。陽造と向かい合わせに、海に背を向けて座っている一人の女子高校生が、じっとこちらを見ていた。まなざしは厳しかった。目を合わせても逸らさずに見つめてくる。
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