海辺を走る

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 乗車マナーを知らんのかい。  陽造は、ちらと相手を観察した。  ネクタイを締めた勤め人だ。五十代だろうか。髪を短く刈って、眉が太く、鼻が大きく、口元をぎゅっとひきしめて、顎が出ている。がっしりとした体つきで、手指はごつごつとして太い。柔道か相撲でもやっていそうな雰囲気だ。  陽造は更に自分の足を広げてみる。右足と相手の左足がちょっと押し合うかんじになる。密着して気持ち悪い。普通ならここで相手は陽造の抗議というか主張というかを感じ取って少しは譲るものだが。  今朝の男は違った。  じわりじわりと力を入れて押し返してくる。  俺様は一ミリたりとも後退はしないぞということか。  陽造はふたたび男の横顔を見た。目を閉じて眠った振りをしている。  なんや、こいつは。  腹が立った。  陽造は腕組みをして、自分も狸眠りをし、右足を、じりじりと押していく。  こんなマナー知らずに負けてたまるか。  相手もひかない。お互い寝た振りで、ギリ、ギリ、ギリッと足と足とを押しつけ合う。  力を籠めても微動だにしないので、陽造は思わず目を開けてみた。  相手は、ノートパソコンを入れる黒い四角い鞄を、自分の左右の太股の間に嵌め込むように挟んで、突っ張りにしている。  うわっ、あかんわ、こいつ。  しかし今更、足を閉じて敗けを認めるのも癪だ。陽造は力を緩めずに対抗しつづけた。  この席も安住の地ではない。自分は車内で、さ迷えるナントカ人になってしもたか。  男は新今宮で降りた。  陽造は難波で立って歩きだし、右足が筋肉痛で攣りそうになるのをかばい、よろめいて、足首を捻ってしまった。
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