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分散 / 彼女の三日後
煙草に火を点けた。彼が触れた唇に、彼の忘れものが触れた。
最初だけ吸って、煙を吐き出すと灰皿に置く。
最初には噎せていたのも、さすがに何度も繰り返せば慣れて上手くもなった。
煙はゆっくり昇って、部屋の中へ消える。
彼の忘れものが、彼の去った部屋を満たす。
【 分散 / 彼女の三日後 】
「……」
彼とは一年半付き合って、一昨日別れた。
抱き合って、キスして、寝て。
いつの間にか、隣にいるのが、前にいるのが、……そばにいるのが、当たり前で。
「……っ」
前髪を掻き上げる。その動きに灰皿の煙が揺れた。
いなくなった、彼みたいだった。
もう泣き尽くした。もう涙は出ない。
涙が涸れたら、穴が開いて、空っぽだった。だから、きっとこの顔は瞳が空ろになっているに違いない。笑う。
絶対不恰好な、笑み。……ねぇ。
きみを見送った顔と、どっちが不細工だった?
“わかれよう”
彼の言葉が、耳に入らなかった。そのくせ、一文字ずつ、スローモーションで視界に入って来た。
無声映画のように。
彼とは、映画で……映画が好きで、映画館で知り合ったんだ。
映画館に貼り出される感想欄。
よく、自分と同じことを書く人がいて。掲示板の前で。
“おんなじこと書いてるヤツ、いるわー”
揃った声に、顔を見合わせた。
偶然だった。少女漫画みたいな……恋愛映画みたいな出会いだった。
付き合ってからも、二人で近くのレンタルショップへDVDをよく借りに行った。お互いの部屋で、旧作も新作も観た。映画配信サービスだって二人とも入っていたくせに、選ぶ時間が好きだった。
毎回、映画館には行けなかったから。……ちょっと高いのも在るけど、何より時間が取れないし。
私は、好きだった。あの時間が。
何で忘れていたんだろう。冷めた紅茶を呷る。ティーパックを入れっ放しの液体は、苦かった。
忘れる程、近過ぎたんだろうか。だって、別れたとき。
久々に彼を見た気がしたもの。彼の輪郭を、ようやく捉えられた気がした。
「……」
いつも、くっ付いて寝た。離れたら、追い掛けて、寄り添った。構ってほしくて、集中する彼の邪魔をした。
根負けして、しょうがないな、って、抱き締めてくれるのが、笑ってくれるのが、うれしくて。
何回も、短いキスをくれるのが、好きだった。
持っていたカップを置いて、立ち上がると、ベランダに歩み寄って窓に手を付いた。
彼が遠慮して煙草を吸っていたベランダ。
近付いたら、カーテンから、ふわりと匂いがした。
彼の匂いだった。
「……ごめんなさい……」
私の中は、すでに空っぽだと思っていたのに。両目は暈けて震えて、雫が落ちた。
止め処無く、次から次へと流れる。涸れてなんか無かった。
ううん。
生み出されて、溢れて逝くんだね。
きみへの想いだもんね。
「ごめんなさい」
甘え過ぎていて、ごめんなさい。
苦しくさせて、ごめんなさい。
好きでした。今でも好きです。
なのに。
涙なんか無くても、この眼はきみを見ていなかったんだ。
こっちを見て、なんて言って置いて。
私がきみを見ていないのに。
じゃあ、仕方ないよね?
ベランダから定位置の座椅子に戻ると、灰へ変わった煙草の代わりに、新しい煙草に火を点けた。
燻る煙。
彼の匂い。
この部屋から消したくなくて。
次から次へと火を点けた。マッチ売りの少女の如く。
わかっている、無駄な抵抗だって。
せめて、彼が忘れて行った箱の中身が消えるまで。
「……。好きでいさせて、ください」
抱えた膝頭に額を付けて、呟いた。
彼の匂いに満たされる、彼の去った部屋で。
彼に合わせた、五分進んだ時刻で、時計が午前零時を知らせた。
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