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けれどふたりとも今は、そんな痛みなど忘れていた。
「隼珠」
感情をさらけだして、情けない表情になってしまった隼珠の顔を愛おしむようになでてくる。
そのとき、遠くでひときわ大きく半鐘の音が鳴りだした。
迅鷹がそちらに顔を向ける。隼珠も振り返った。迅鷹はあたりを見渡してから、獣道を外れると、道脇の少し平らになっているところに足を踏み入れた。
隼珠が後を追うと、木々の合間から眼下が見おろせた。山のふもとの一軒から火が出ている。赤尾の屋敷だった。
「こっちへ来な」
迅鷹に手を引かれ、足元のならされた場所へ導かれる。畳一枚分ほど、木や草が抜かれ整えられたところがあった。
「ここは赤尾を見張るために作っておいた隠れ場所なんだ」
平らなところの先は、大きく落ちこんでいる。目の前にはまばらに茂った杉や欅があり、ふもとからは気づかれにくい見張り台のように設えられていた。ここが迅鷹が目指していた目的地のようだった。
濃紺に包まれた村は、月明りでわずかに家や田畑の輪郭が見分けられる程度だ。しかし赤尾の屋敷の周辺だけは、煌々と炎に照らされている。
周囲には人が集まり始めているようで、提灯がいくつも動いていた。けれど、ここまで火が回ってしまってはもう手の施しようがないだろう。人々は見ているしかないようだった。
夜空に響く鐘の音を聞きながら、迅鷹と隼珠は、木々の間からそれを眺めた。
「これで、終わったな」
迅鷹が隼珠を引きよせて言う。隼珠は燃え続ける屋敷に目を向けた。
「……へい」
蛇定ももう、この世にはいない。隼珠を苦しめた男は、永遠にここを去った。
「お前は、これで、いいか?」
確かめられて、隼珠は迅鷹を見あげた。迅鷹は静かな目をしていた。
「へい」
隼珠の答えに、迅鷹は「そうか」とだけ返した。
しばし無言で、焼け落ちていく屋敷を遠目に見る。隼珠は八年間、自分をとらえ続けていた執着が、苦しめていた怒りが、はらはらと身体から剥がれ落ちていくような気持ちになった。
そうして全身から緊張が抜けていくと、改めて迅鷹の手の強さを感じた。
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