過去

2/3
366人が本棚に入れています
本棚に追加
/158ページ
 冷たい秋雨が降っている。  数えで十の隼珠(はず)は、泥水の中にうつ伏せて倒れていた。  苔むした木の根と、枯れた松葉が頬を刺している。夕暮れどきで視界は暗い。その先で、三人の見知らぬ博徒に兄が襲われていた。 「俺が目をつけた女に手ぇだそうとしやがってぇ」  男が何度も長脇差を振りおろす。斬りつけられた兄はもう死んでいるだろう。なのに反動で、腕が生きた魚のように跳ねて――。  秋祭りの帰り道だった。  ふたりで番傘をさして歩いているところを呼びとめられ、無理矢理、雑木林へ連れこまれた。 「泉橋亭の、井口清市(いぐちせいいち)だな」 「……そうですが」  わけがわからず怯える兄に、蛇のような目をした男はいきなり長脇差を抜いた。 「――隼珠、逃げろ」  反射的に、兄は弟を押して逃がそうとした。しかし、幼い背に男は襲いかかった。 「ひぅ――」 「隼珠っ」  冷たい刃が肉を裂く感触が、右肩から左腕にかけて走る。瞬間、焼きごてをあてられたような痛みに、隼珠は声もなく泥の中に転がった。 「やめろ、やめてくれっ」  兄の叫びが耳をつんざく。  倒れた隼珠は、痛みで朦朧とした目で、斬り刻まれる兄を見つめた。  どうして、どうしてこんなことに。いったい何が起きているのか。なぜ自分と兄が襲われたのか。  なにもわからないまま、やがて視界が暗くなる。 「……(あん)ちゃん」 小さな呟きは、男らの怒声と嘲笑に紛れて消えた。  
/158ページ

最初のコメントを投稿しよう!