愛撫

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「はなして下せえ」  腕を振り払おうとしたが、つかまれていたのが左腕だったため力が入らなかった。 「白城の親分さんに三百円の代わりに買われたんだろう。妾になったんじゃないのか? ええ? なのになんでこんなところで汚い人足みたいな恰好をさせられてるんだ」 「ちがいまさ。俺は妾なんかじゃ……」  周囲にいた人足らが何事かとこちらを見る。  隼珠は目をさまよわせた。こんなところで大事にしたら迅鷹に迷惑がかかる。沢口も視線に気づいたのか、いったん口をつぐんだ。隼珠を無理矢理建物の陰へ引っ張っていき、そこで顔をよせてくる。 「わたしは君のために、屋敷も、着物も山ほど揃えたんだぞ。それを親分さんに横取りされて泣く泣くあきらめたんだ。なのに、可愛がられているんじゃなかったのか」  つかまれた腕が痛い。脂ぎった髭先が頬に触れて、背筋が寒くなった。  咎める沢口は、隼珠が泣きそうになっているのに気づくと、ふと顔つきを変えた。 「そうか。閨でうまくふるまえなくて親分さんの機嫌を損ねたんだな。だから情夫から人足に格下げされたのか」 困惑する隼珠を見て誤解したのか、急に優しい態度に変わって猫なで声をだしてきた。 「よしよし、それだったら、わたしが君を買いなおしてやろう。可哀想に。君にこんな姿は似合わないぞ」 「ちがうんです。そんなんじゃ――」 「おうい、隼珠坊」  倉庫の前で、自分を呼ぶ声がした。振り向くと源吉が手を振っていた。  それに気づいて、沢口の手もゆるむ。隼珠は急いで腕を振り払った。 「すんません」  一礼してその場から逃げだす。後ろも見ずに走っていき、少し離れてから振り向いた。沢口が追ってくる様子はない。ホッと息をついて、源吉に駆けよった。 「手伝ってくれ。今日は人手が足らん」 「へい」  仕事を頼まれ、助かったとばかり隼珠は返事をした。  大八車に鍬や鋤やモッコを積むように言われたので、道具小屋からだして運ぶ。そうしながら、隼珠は源吉にたずねた。 「沢口の社長さんは、どうしてここにいるんでしょうか」 「沢口社長? ――ああ。あん人か。新しい製糸工場が、もうすぐこの近くにできあがるらしいから、堤防がどんな具合になるのか気になったんやろ」  源吉がモッコを重ねつつ教えてくれる。 「そうなんすか」  隼珠は俯いたまま、そっと目だけをあげて客のほうを眺めてみた。
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