愛撫

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 沢口らは見学が終わったのか詰所の前に集まっている。もうすぐ昼時だ。これから料亭にでも出かけるのだろう。  沢口は、隼珠のことを迅鷹に言うだろうか。もう一度自分に売ってくれと頼むだろうか。沢口は金持ちだから、三百円でも払えるかもしれない。そうしたら迅鷹は自分を売るのだろうか。自分にそんな値打ちがあるとは到底思えないが、沢口の執着じみた目つきが頭から離れなかった。  源吉の手伝いをして、昼時になったら、隼珠は配られた昼飯を持って土手の向こうへ歩いて行った。  岸近くの草むらに座り、竹の皮に包まれた握り飯と煮しめを取りだしてほおばる。誰とも話をしたくなかったから、川辺に群れる鳥や虫だけを相手に飯を食べた。  天気はうす曇りで、川の流れは穏やかだった。水面は銀の魚の鱗のように規則的に波立ちながら、川下へと連なっている。隼珠は食べ終わっても立ちあがろうとせず、しばらくそこに座りこんだまま川辺を眺めた。沢口のことが気になって、源吉らの元へ戻る気になれなかったからだ。  自分はこれからどうなるのだろう。また売られていくのか。それともここに残ることができるのだろうか。身の振り方は自分自身では決められない。  ぼんやりと眺めていたら、川の向こうに人影があることに気がついた。遠くて顔までは見えないが、数人の男がウロウロと土手の上を行ったり来たりしている。隼珠は目をこらした。 「……赤尾?」  歩き方や振る舞いが、博徒のものだった。肩をそびやかし、こちら側に睨みをきかせている。その中に、憶えのある男がいた。 「蛇定」  姿かたちを見紛うことはない。確かにあの男だった。  隼珠は草陰に移動して、彼らが何をしているのかそっと観察した。蛇定らは飯場を指さして話をしているようだった。嫌な予感がする。赤尾は堤防工事を白城組に取られて怒っていると、以前聞いた。だったらよからぬことを企んでいるのかもしれない。  蛇定の姿に、今まで悩んでいた憂いも吹っ飛ぶ。  ――そうだ。どこへ行こうとも。自分のしたいことはただひとつだけだ。  それは絶対に変わらない。  隼珠は彼らの姿が土手から消えるまで、ずっとそこに潜んで動きを目で追い続けた。
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