02 - イズミルにほど近いゴルシュ

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02 - イズミルにほど近いゴルシュ

 オルルッサ大陸西方、イズミルにほど近いゴルシュは、南国でありながら派手さや騒々しい陽気な風潮があまりなく、昼さがりのようなのどかな静けさがただよう島である。  それは、ここが常に涼風の往来に恵まれた土地だからだろうか。  しかしアイディーンはスィナンの青年がいっそう鬱々とした様子をしているのに気づいていて、それはこの地に風の精霊が豊かだからかもしれないと思った。  カシュカイは神を、その力を強く(いな)んでいる。  そして神に従属する精霊もまた彼を不快にするばかりで、癒しや慰めになる存在ではなかった。  ここはどこもたえまなく風の通りがあるので、彼にとっては苦痛でしかないだろう。  青年をシヴァスから早く連れだすべく強引に国を発ったが、真に彼へ安寧をもたらすのは難しい。  かたん、とかすかな音がしてふりむくと、露台からスィナンの青年が入ってくるところだった。  この島の宿は、いや宿にかぎらず建物はどこも窓が多く、また大きく造られていて露台のないほうが珍しいくらいである。  それもより多くの風をとりいれるための構造だが、彼にはわずらわしいだけに違いない。  「食事をしてきたのか」  「はい」  そういえばもう夕食の時分だったと気づいて、アイディーンは提案した。  「宿の女将に、近くにうまい食堂があると聞いたんだが、一緒に来ないか。おまえは話し相手をしてくれればいい」  うなずくカシュカイと部屋を出ながら、アイディーンは彼と食事を共にできないことを残念に思った。  食事の場だからうちとけてできる話もある。  それにカシュカイはフォークやナイフをあつかったりものを食べたりといった所作が美しい。  上流階級の教養はひととおり身につけさせたとヴァルム・ドマティス導師が言っていたが、それを別にしても彼の仕草は食事にかぎらず品がある。  特にふるまいをつくっているということではなく、それはもう天性のものとしかいいようがない。  宿の階段をおりながら「なあ」と声をかけてふりかえったアイディーンは、後からついてくる青年の左袖に違和感を覚えて手をのばした。  「これは」  ゆったりした袖口をなにげなく引いて、手をとめた。  小さな染みがいくつか散っている。  赤く、乾ききっていない。  袖口の奥からかいまみえる腕の裂傷がその原因だった。  「どうしたんだ」  険しい主の声に、カシュカイはうろたえて息をのんだ。  袖をあげられて再び強い口調で問われた。  「あ、の」  不機嫌にもみえるその表情に動揺してしまい、言葉がうまく出なくなる。  なにが主を不快にさせてしまったのだろうか。  血で服を汚してしまったことか。  それとも傷口など見苦しいものをさらしたからだろうか。  「魔属にでくわしたのか」  「いえ」  「じゃあ誰か、ここの者に?」  「いえ、なにも問題はありません。自分で切っただけです」  おびえて大丈夫だと言う青年に、アイディーンは眉を寄せた。  「自分の腕を切りつけたのか」  手首をつかむ力が強まったのを感じて、カシュカイはどうしようもない混乱に冷静さを欠いていた。  「そう、です。自分で……」  自分で、とくりかえしたのは、主が他者に容易に傷つけられるような惰弱さを責めているのかもしれないと思いいたったからだった。  さらにはこれから先、長い戦いを続けていかなければならない立場にありながら、身体に不自由を抱えることに彼は不快を覚えたのかもしれない、と考えがおよんで慌てて言った。  「数刻もすれば完治します。なにも支障はありません」  その言葉に、アイディーンの目が険を帯びた。  つかんだままの腕をひいて部屋へ戻ると、清潔な布で血を拭き包帯を巻いた。  一言も口をひらかず厳しい表情のままの彼の様子が、カシュカイをさらに混乱と恐怖におちいらせた。  傷口をあつかう所作は丁寧だが、全身から発せられる怒りにも似た不快な情動を感じとって、触れられた腕が痛かった。  まただ。  また主の前で失態を演じてしまった。  もとより彼の心身を完璧に満たすなど、自分にはとうていできないと承知している。  ただ、せめて疎まれることのないよう彼の道具に徹しようとしながら、それすら満足にこなせず主に不快を与えてしまう自らの無能さが呪わしい。  処置を終えたあとアイディーンはそのまま動かず、重い沈黙が横たわった。  とげとげしい空気が肌を刺すような刺激を覚える。  主の顔を見ることも弁明を重ねることもできず、カシュカイは息を殺して断罪を待った。  不意に、アイディーンが立ちあがり彼を見おろした。  太陽がほとんど没して薄暗い室内でその表情はさだかではなく、カシュカイを余計に不安へ追いたてる。  ひどく長い時間が彼らを支配していた。  突然強い風が吹いて窓をきしませたとき、耐えられずうつむいたカシュカイの、そのあご先を捕らえられ上向かされる。  なおも主の表情はわからなかったが、彼は従順に目を閉じて動かなかった。  ゆっくりと唇に自分のものではない熱が触れる。  その熱が主の気流を奪った記憶を再び蘇らせて、震えをよびおこした。  いや、それはこれからもたらされる時間を思ったからだろうか。  寝台に押し倒されると同時に衣の留め具を外されるのがわかって、カシュカイは慌てて手をやった。  「申し訳ありません。自分で、脱げますから」  しかし青年は無言で、動作をやめなかった。  とりつく島のない様子にカシュカイはどうしていいかわからず、途方に暮れてそれを見ているしかない。  衣をはだけさせて白い胸もとがあらわになったとき、アイディーンはようやく動きを止めて、まぶしげな表情をみせた。  大怪我をしていたときは気にもしなかった肢体のなまめかしさを、初めて感じとったからだ。  服の上からでもうかがえた身体の繊細さは、くすぶった残り火のようなほのかな麗艶さをただよわせている。  いつも乾いて冷たかった肌がじわりと変化するのを、彼は触れた指先から感じた。  ふと、乱れた衣もかまわずスィナンの青年が上半身を起こし、アイディーンの腰ベルトに手をやってはずすと、下衣の前をくつろげながら顔を寄せた。  思いもよらない行動に、彼は反射的に肩を押しもどす。  「なにを」  不振な問いに、顔をあげた青年は薄暗がりでもわかるほど一瞬で血の気を失って青ざめた。  「すみません、ちゃんと……できます。うまく、やりますから」  謝罪する声がかすれる。  スィナンの青年がしようとしたことは明らかだった。  アイディーンは先ほどからの不快をより強く感じた。  いや、どうしようもない苦さを感じずにはいられなかった。  スィナンの青年の言動は、彼がこの種の行為に対して免疫があることを示している。  慣れている、というより恐れをにじませたその言の裏側を、なんの心がまえもなく無造作に暴いて見てしまったことをアイディーンは悟った。  スィナンの青年の身体を硬直させておののいた様子を前に、アイディーンはもはや完全に冷静をとりもどしていた。  それ以上に、正気に戻ったというべきかもしれない。  とにかく自らの衝動的な行動に対して凶悪な悔恨を覚えた。  これまで生きてきたなかで自己を律するのは当然の理性で、そこに困難や苦痛をともなうなどということはなかった。  そのあたりまえの自制が、カシュカイに対しては貫くのが難しい。  突然わきあがる感情の思いがけない豊かさに自分こそが驚き、またそれが不快ではなかった。  しかし、まさにいまやったことはあきらかに相手の尊厳を踏みにじる暴力行為で、そのうえ容易に立ち入るべきではなかったスィナンの青年の暗い内側をかいまみてしまった。  彼のおびえきった目がアイディーンの胸中をいっそう重くする。  「悪かった」  細い腕をひいて身を起こさせると、むきだしになった彼の肩に衣をかけて頭をさげた。  カシュカイは目を見開いてそれを呆然とながめた。  主の口からでた謝罪の意味がわからなかったからだ。  行為が中断された意味はなんだったのか。  知らないうちに主の気に障ることをしただろうか。  いや、それとも自分ですら厭うこの醜悪な身体に触れるのを嫌悪されただけなのかもしれない。  閨房の務めそれ自体は、カシュカイにとって主人(・・)に対してごくあたりまえの従属のひとつだった。  少なくとも以前いた場所では相手の望むようにすれば、その行為がなにを意味するのか理解していなくてもひどく折檻されずにすんだ。  情事はそれでも恐ろしく、耐えがたい苦痛と()いられた快楽だけが身体に残る記憶だったが。  真に自らの主となったシヴァス人の青年は、しかしそういった意味で触れてくることはなく、カシュカイは長くそれが不安だった。  主人の願いを叶えることと主人の情欲に従うことの違いが彼にはとうとうわからなかったが、以前は閨事ばかりを求められたし、その務めがかろうじて自身の存在意義を保証していた。  そのためいっこうにそれを求めない主がいつ自分を不要だと嫌厭して遠ざけるかと思うと、恐ろしくてたまらなかったのだった。  だから彼が寝台にあがって衣に手をかけたとき、本能的な恐怖とは別の思考が感じたのは安堵に他ならなかった。  それは暗い喜びだったが、かつてと同じように主に務めればいいと思った。  そう思ったはずだったが。  「ごめんなさい。今度は、うまくやります。大丈夫です」  同じ言葉をくりかえす。  声が震えてしまうのはどうしようもなかった。  ここで役にたたなければ、これから先なにも望まない主のためになにができるというのだろうか。  魔属を狩猟するしか能のない者が、彼にとって必要である理由はみつからなかった。  「どうか……」  カシュカイの表情は悲痛で、その声は哀願に近かった。  アイディーンはゆっくりと顔をあげると、目を細めて彼を見つめた。  そこにあったのは苦さだけだ。  それでもようやく頼りないあごに触れて、先ほどとは比べものにならない優しさでくちづける。  優しさは慈悲そのものだった。  「おまえはなにもしなくていい」  合間にささやいて、より深く口内を熱くする接触でカシュカイの息をあげさせた。  主の言葉の意味をつかみかねて困惑する視線にとりあわず、再び衣をとり去って細い首筋から鎖骨のくぼみ、なめらかな胸の赤みへ唇を滑らせる。  「あ、の」  カシュカイはそこで意外にもうろたえた声を漏らした。  「なに……を……」  胸を口に含んだとき、拒絶はしなかったがあきらかに気が動転したような表情をみせた。  白い肌に触れながら、アイディーンはその反応をこそ意外に思った。  たしかに行為に慣れていると思ったのに、この初心さはなんだろうか。  狭斜の住人でもすすんでやらないような行為を、ごく当然のようにしかけてきたついさっきの態度はもはや微塵もない。  以前にも覚えのある違和感を、アイディーンはここにきて再び覚えずにはいられなかった。  カシュカイの身体、思考、行動、あらゆる均衡は著しく損なわれていて、それは彼に対して周囲がとってきた唾棄すべき態度の積み重ねの結果かもしれなかったが、なぜその状態で正気を保っていられるのかというような危うさがあった。  まるで細い紐の上を渡るような少しの気の緩みも許されない場所に彼は立っていて、ほんのわずかなきっかけで均衡が失われれば容易に崩れ落ちてしまうのではないか、というような緊迫感だ。  それらすべての根底はいったいどこにあるのだろうか。  アイディーンは細い身体からとまどいが消えるまで、丁寧に愛撫をくりかえした。  やがて冷えた身体がゆっくりと熱をもちはじめ、カシュカイの目に普段では想像もできないような愉悦の色がゆらりと宿った。  見る者の目を奪う美貌でありながら禁欲的なまでに冷然とした彼の表情が、かすかにみせた嬌羞は凄絶な色香をもち、アイディーンの性的な本能を膨張させた。  いや、実際にカシュカイの身体から甘い匂いがにじんでいるのに彼は気づいた。  花の蜜に似た涼しげな甘さ。  もとからつけていた香油が身体の熱と共に溶けて匂ったような、そんな感じが。  アイディーンはその無意識の誘いに抗うことはもちろんしなかった。  「っ……」  息をあげていたカシュカイが執拗なまでの愛撫に思わず声を漏らしかけた。  はっとして、きつくシーツをにぎりこんでこわばった右手を噛みこらえようとする。  スィナン特有のとがった犬歯が薄い皮膚をまたたく間につきやぶった。  「カシュカイ」  とがめて、アイディーンはその手をはずさせる。  見ると、すでに自分の爪でやったらしい傷が手のひらについていた。  アイディーンはため息をついて、細腕を自分の首へまわさせる。  背中にでも爪をたててくれたほうがずいぶん気が楽だ。  自傷行為を助長させるのはやめさせなければならない。  カシュカイの熱い息が肩口に感じられる。  下肢に手を滑らせたとき、ひゅっと息を飲むのがわかった。  自分でつけた傷以外には傷跡もほくろさえもない肌。  柔らかい凹凸などないのに、白くなめらかな肢体は異性よりよほど頼りない。  腰の細さはあまりに華奢で、これで相手を受けいれることができるのかと思えるほどだった。  しかし、足のつけねに触れるとそこはいくらか熱を帯びていた。  瞬間、カシュカイははねるような勢いで顔をあげる。  「じ、自分で」  やる、という言葉をアイディーンは唇でふさいだ。  何度もくりかえして赤く濡れた唇をぺろりと舐めると、カシュカイはショックをうけた様子で身をすくませていた。  「こんな、汚いことを、あ、あなたが……」  つたない言葉が途切れる。  絶句した彼はなにも思考できなくなってしまっていた。  アイディーンはなにもしなくていいと言ったが、こういうときはどうふるまえばよかったのだろうか。  こんな命令はされたことがない。  アイディーンの行動は体験したことのないものばかりで、カシュカイは幼子のように途方に暮れてしまうしかなかった。  「おまえは汚くなどないし、俺は汚いことをしているわけじゃない」  アイディーンは苦笑して、こわばった背を軽くなでた。  そうしながら一方で下腹部へ手を這わせ愉楽を与える。  丹念な行為にカシュカイがちゃんと反応していることに、密かにほっとした。  あるいは、と危惧したからだ。  カシュカイは身体的に達するような情事にはおよべないかもしれない、と。  それは過去から続く肉体的、あるいは精神的な外圧による影響が、少なからず彼を蝕んでいるのを感じているからだった。  たしかに身体はまだ緊張したままだったが常になく熱をもった肌に安堵して、アイディーンはカシュカイの後ろにも手を滑らせ、深部をゆっくりと指で侵していった。  カシュカイはかたくまぶたを閉じてこらえるしかできない。  噛みしめた歯の合間から漏れる息が震えてどうしようもなかった。  声をだしてはいけないと思ったが、自分ではないものが身の内を動く感触にわきあがる性感が、ともすれば嬌声を生みだそうとした。  「大丈夫か」  耳もとにささやかれるその低い声は、頭の芯を溶解させる甘さに満ちている。  ただ浅くうなずくカシュカイにかすめるようにくちづけて、アイディーンは細い足を割りひらかせた。  うつぶせにさせたほうが身体的に楽だとはわかっていたが、カシュカイの顔が見えないのを嫌ってそのまま腰を進めた。  「アッ」  熱をもってカシュカイに深く触れたとき、彼は初めてはっきりと声をあげた。  次の瞬間、両腕で顔を覆ってしまったのをアイディーンは羞恥のためかと思ったが、そうではなかった。  カシュカイの身体は小刻みに震えている。  その腕をゆっくり外させると、怯えて謝罪をくりかえした。  「なぜ謝るんだ」  「私の声が、穢れをもっているから……」  「俺はそんなことは言ってない。感じているなら声を聞かせろよ」  「我が主(ファラン)」と思わずつぶやいた形式的な呼びかけに、アイディーンは少し笑ってあやすように頭をなでてやった。  「呼ぶときは、俺の名を」  わずかに視線をさまよわせて、ようやく吐息のような声で「アイド」と言葉を紡いだカシュカイに何度目かのキスをすると、アイディーンは行為に集中した。  カシュカイの内は身を焼くような熱さをもっている。  弓なりに反った細腰をつかんで慎重に攻めたてた。  カシュカイはなおも喘ぎをこらえようとして唇を噛んだが、それはもうほとんど反射的なもので、またその耐えがたさが自らの身の内を侵す熱をきつく締めつけた。  無言のままのアイディーンは乱れた息そのままに深々と腰を進め、狭いばかりの熱さのなかで果てた。  カシュカイは大きく身体を震わせて耐えたが、こらえきれず顔をそむけてシーツに押しつけた。  自分とアイディーンの腹を、白濁した体液が濡らしている。  アイディーンは情欲のにじんだ目を細め無意識に唇を舐めると、それを手に包みこんでなおもゆっくりなでた。  達したばかりの神経は鋭敏に過ぎて、しわくちゃのシーツに埋もれたままのカシュカイは抗うすべもなく乱れる。  「…っ……!」  痙攣するように四肢を震わせながら、カシュカイはどうしようもなく混乱していた。  これほど早急に達することなどなかった。  そうでなければ罵られ、あるいは頬を張られるような目にあったからだ。  なにより自分の吐きだした汚物(・・)で相手を穢してしまったのを見て、目の前が真っ暗になった。  「申し訳ありません、どうか……」  くぐもった謝罪は、しかしどこまでも優しい愛撫に息を乱され霧散する。  いまや頭のなかに理性などかけらも残っていなかった。  強い快楽と主への罪悪感と自己嫌悪、そんな雑多な感情がぐちゃぐちゃにかきまわされ、自我を保っていられない。  続けざまの行為が、いっそうカシュカイを蝕んでいく。  房事でさえどうしようもなく無様な自分を主は今夜限りで厭うに違いない。  なんの役にもたたない醜い肉体を切りきざんでしまいたかった。  どろどろと暗い失望に覆われながらも身体は欲情に支配され、呼吸が乱れるのをおさえられない。  アイディーンの愛撫がカシュカイを追いたてる。  また熱が集束してくるのを感じて、カシュカイは息を弾ませた。  こんな汚いことをアイディーンにやらせるなど、なんという醜態だろうか。  「おまえは汚くなどない。……カシウ」  白い身体を翻弄しながら、アイディーンはささやき続けた。  やがてカシュカイが再び達して、そのまま糸が切れたように気を失うまで、彼はただくりかえした。 第五話 接触 END
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