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01 - 森の奥深くに生じる気流
森の奥深くに生じ、深い水の底にただよう気流。
そんなとりとめのないものでなぜこの身体を保っていられるのか、カシュカイ自身にもわからない。
「う……」
大樹の幹におしあてた手のひらに気流が入りこんでくるのを感じて悪寒を覚えた。
このところ、いつもそうだ。
理由はわかっている。
食事をするたびにあの夜を思いだすからだ。
あたたかい肌に這わせた手のひらに伝わってきた、規則正しく脈打つ音。
たしかにそこに気流を感じた。
森や湖にあるような静謐なものではない、猛々しい生命の力だ。
生まれて初めて人を喰ったその熱さと恐怖は、癒えることのない心の奥底に深く刻みこまれた。
それは、殺人抑制の法術による制裁でもあった。
アイディーンは人間を喰い殺す行為への禁忌と解釈していたようだが、人の生命を喰らうという意志そのものに法術は反応する。
対象が死に至らず、もとより殺人的衝動など皆無だったためかろうじて術は発動しなかったが、そうでなければ即座に自分が死んでいただろう。
いや、法術士たちが容易にマラティヤを手放すとは思えず、死などという非効率的な処理をするより、いま以上に自我を縛るような仕掛けを施しているのかもしれない。
術がどんな影響をもたらそうとカシュカイになんの痛痒もなかったが、アイディーンに対しては多大な罪悪感ばかりが募った。
主から施しを受けるなどあってはならないことだった。
彼には初めから醜態をさらし続けていて、挽回の余地もない。
いるかどうかもわからなかった〈終の契約〉の主を得た最上の喜びは、たしかに一度カシュカイのすべてを満たしたはずだった。
忌まわしい呪いとしか思えなかった契約は、術が成立した瞬間に彼の精神と肉体を一変させ、尊くかけがえのないあたたかさに塗りかえた。
しかしいまはもう、自らの惰弱さばかりが厭わしい。
主の望むすべてを叶えたいと思っていても彼はなにも願うことはなく、むしろその手をわずらわせるばかりだ。
昔から自分はなにひとつ変わらない。
なんの役にもたたず、また独り捨てられるだろうか。
その考えにおよんだとき、カシュカイは血という血が一滴残らず失われたような凶悪な感覚におちいった。
全身が震えに襲われ、自らの両肩を抱いたがおさまらずその場にうずくまる。
声が聞こえた。
『不要な子が産まれた』
『穢れた忌み子』
『――わたしの言うことが聞けないというなら、おまえなど要らない』
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
カシュカイは歯も噛みあわないままくりかえしつぶやく。
とっさに腰に手をのばすと、短剣を引き抜き躊躇なく腕に突きたてた。
つい数刻前に再生したばかりの新しい皮膚が刃を飲みこんで鮮血をあふれさせる。
それを見て、ようやく青年は正気にかえったような顔をした。
腕が痛い、と思って、どくどくと脈打つのを感じた。
短剣を抜き、今度は浅く切りつける。
何度も何度も。
そうしていると自分が正気でいられる気がした。
傷がふさがるわずかなあいだだけは、なにも余計なことを考えずにすんだ。
「あぁ、でも」
戻らなければ、と言う自分の虚ろな声が聞こえる。
勝手に主のそばを離れるなど許されないことだ。
ふらりと立ちあがったスィナンの青年はおぼつかない足どりで二歩三歩とよろめくと、さらわれるように精霊たちのおこした風のなかに消えていった。
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