02 - カシュカイは目を覚ました

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02 - カシュカイは目を覚ました

 冷たいものが口のなかに広がって、カシュカイは目をあけた。  「おや、目覚めた」  水袋を手にした男が顔をのぞきこんでくる。  その腕に身体を支えられているのに気づき、子供はぎょっとしてとびのいた。  自分以外の皮膚(・・)が自分に触れている、そのあまりの異質な感触が彼を不安にした。  アフシャールかと思ったその男は、しかしよく見ればまったく違う。  着ている服が師よりずいぶん色鮮やかだし、髪も白くない。  (ひげ)も生えていないし、師のようなしわがなかった。  師からいくつか見せられた画集の肖像画の写しを思いだして、年若い人間なのだと気づくのにしばらくかかった。  初めて見るアフシャール以外の人間に、感情がわきあがって、周りを見まわしながら思わず声を漏らした。  「御師様」  師はどこにいるのかと焦燥が募る。  はやく戻らなければならなかった。  「ああ、声も良いね」  少し驚いた様子だった男は、にっこりと笑って言った。  「迷子になってしまったのかい? こんな場所では、きみのさがす人はきっとみつからないよ。ここはもうわたしの領地内だから」  男は怯える子供の手をとる。  「わたしの土地にあるものは、すべてわたしのものなんだ。だから、きみはもうわたしのものだね」  子供は抵抗しなかったが、つかまれた手をひどく気にしながら男を見あげた。  「御師様、いらっしゃらない……」  「そうだよ。わたしと一緒においで。きみをとても気に入ったからね」  拒否する選択肢を与えられたことのない子供は、うなずくしかなかった。  どれほど歩いても師はみつからなかった。  人間にはなにがあっても服従しなければならないと師は言っていたから、この男にも従うほかない。  手をひかれて森のなかを歩きながら、男は自分がカイセリという名だということ、このあたり一帯の広大な森と平野を領地とする貴族だということ、首都に行かずここで自由な暮らしをしていることなど、とりとめのない話をした。  「きみの名はなんというの」  カイセリは思いだしたように尋ねた。  「カシュカイと申します」  幼い子供に似合わない丁寧な言葉遣いに、男は少し笑った。  「ヨルクの名ではないね。そのとがった耳や髪の色、もしやスィナンの一族だろうか」  「……はい」  ずいぶんためらったあと、子供はうなずく。  スィナンであることを肯定するには勇気が必要だった。  師たるアフシャールがくりかえし語った、スィナンがどれほど非道で下賤な存在かを、自分がまさにその穢れた一族の末裔なのだと思い知らされるからだ。  しかし、カイセリはまた少し笑んだだけで、それ以上はなにも言わなかった。  男に手をひかれて四半刻ほど歩くと、草木が手入れされた場所にでる。  さらに進むと大きな城が現れ、カシュカイはその巨大さに立ちつくしてしまった。  しかも、隅々まで装飾がほどこされ美しく彩られた古典様式の建築物は、美術品とでもいうべき華麗さである。  門をくぐると眼鏡をかけた壮年の男が出迎えた。  「お帰りなさいませ、旦那様。散策はいかがでございましたか」  「うん、よい拾いものをしたよ。この子の面倒をみておくれ」  カイセリが示したかたわらを見て男は目を見張ったが、それはほんの一瞬のことで、あとは静かに(こうべ)を垂れた。  「こちらへ」  男にうながされ、カシュカイはとまどってカイセリを見た。  彼はにっこりと笑んで男を指し示す。  「バラットについておいき。あとでわたしの部屋へ来るといい」  その言葉におされて子供は歩きだした。  小部屋に入るとバラットは彼を椅子に座らせて室を出ていき、しばらくして湯桶を手に戻ってきた。  布巾を湯で軽く絞ると、細い腕をとった。  その瞬間、カシュカイは驚いて立ちあがる。  カイセリとは違う熱をもった手が再び触れた異様さが、平静を奪ったのだった。  「身体が汚れていますし少しにおいます。そんな姿で旦那様のおそばへ上げるわけにはいきません。身体をぬぐうだけですから、おとなしくしなさい」  バラットは気を損ねるでもなく淡々と言った。  子供はおずおずと座りなおし「ごめんなさい」とつぶやいたが、腕をつかまれ布巾が触れると完全に身体をこわばらせ、猫が総毛だったような状態だった。  身体を清め終えるとバラットは服を手渡し、着替えがすんだら最上階の部屋へ来るようにと言いおいて室を後にした。  残された子供は、いままで手にしたことのないさらりとした感触の服を、珍しげに見つめる。  綺麗なすみれ色の長衣は、精緻な刺繍がいたるところにほどこされていた。  恐る恐る袖を通すと、あつらえたように身体になじむ。  カシュカイは先に着ていた服を丁寧にたたむと椅子の上に置き、小部屋を出て大きな螺旋(らせん)の階段を登っていった。  見たこともない大きな建物。  そこかしこに置かれた絵画や彫刻、鎧、剣。  すべてが美しく、繊細なものたち。  見慣れないそれらに酔ったような浮遊感を覚えながら、カシュカイはようやく最上階へたどりついた。  そこはつきあたりにひとつの扉しかない。  近づいてノックしようとして、扉の隙間から光が漏れているのに気づいた。  共に漏れてくる声にも。  「――旦那様のご趣味はわきまえているつもりでしたが、まさか人の子まで収集なさるとは思いませんでした。いったいあの子供はどこで買ってきたのです。それともさらってきたのですか」  「本当に拾っただけだよ。それに見ただろう、あの子はとうてい人間ではない。かの一族の生き残りが、まだ封印されずにいたとは驚きじゃないか。幼くしてあの美貌! 手に風と光の神の刻印まであったのを見たかい。あの子はわたしのコレクションの集大成といってもいい」  「あの禍々しい美しさは、いつか必ず災いを呼びます。すぐに奴隷商人へ下げ渡すべきです」  「他へやるなどとんでもない。あれはずっとわたしのそばに置いておくことにする。綺麗に磨きあげて美しいまま、ずっとだ」  「旦那様」  カシュカイは扉の外でじっと立っていた。  二人が話しているのは自分のことだろうか。  うろうろと視線をさまよわせて、ようやく扉を二度叩いた。  なにか言いかけたバラットがとっさに口をつぐむ気配があり、すぐにその本人が扉をひらいた。  冷たい目にうながされて室へ入ると、カイセリが手招くのに導かれてそばへ立つ。  「ああ、良いね。服がとてもよく似合っている」  言いながら、男は手を振ってバラットを退室させた。  不服そうな顔がみえなくなると、カイセリは安楽椅子にもたれたままじっくりと子供をながめる。  「わたしはね、美しいものや珍しいものに目がないんだ。これまで収集してきたなかでも、きみは最高傑作といっていい。なにせスィナンといえば魔属と人間の交わりから生まれた一族で、その左手の刻印は神の加護強い者にまれにあらわれる証だ。つまりきみは魔と人と神、決して交じり合うはずのない三種の特性をその身にもつ稀有な存在というわけだ。それを体現する美しさ! 最高の芸術品にふさわしい」  男の目には、異様な興奮が渦巻いている。  「そう、きみはもうわたしのものなんだ。長く髪をのばそうか。服ももっと細身で華やかな色がいい。きみは肌が白いし、七色に変化する髪と瞳にはなんでも似合うに違いないよ」  ――風変わりな貴族の男は玩具に夢中な子供のように、カシュカイに日に何度も着替えをさせたり、日がな一日そばに座らせて鑑賞したりといった偏執的な執着をみせた。  そうかと思えば、何日も書斎にこもったまま顔をみせなかったりする。  そんなときカシュカイは出歩く自由もなく、部屋でひとり茫洋と過ごすしかなかった。  膨大な蔵書をほこる書庫と歴代当主が収集した美術品の数々が飾られた宝物庫は出入りを認められていたが、師アフシャールから文字にも財物にも近づくことを禁じられた彼には、なんのなぐさめにもならない。  やがて一年がたったころ、カイセリは離れに屋敷を建てスィナンの子供をそこに住まわせた。  屋敷から一歩も出さず、ときおり来る奴隷とおぼしき若い女が身のまわりの世話をした。  カシュカイは彼女が奴隷という身分だとは知らず話をする機会もなかったが、もしその気になったとしてもそれは無理だっただろう。  薬物で喉をつぶされた女は発声機能を失っていた。  ある夜、三月ほど姿を見せなかったカイセリが、前触れもなく離れをおとずれた。  カシュカイは眠っていたが、物音に目を覚ますと戸口に男が立っている。  彼はゆらりと緩慢に近づいてきた。  もはや奴隷すら遠ざけられ顔を合わせる相手もなく、孤独の闇に沈みそうだったカシュカイはその来訪を喜んだが、ふと鼻につく酒のにおいに気づいた。  見ると、カイセリの足どりはふらついて規則性がない。  ようやく寝台のそばまでやって来て、つまずくようにカシュカイの上へ倒れこんだ。  「カシュカイ……きみは、わたしのものだね?」  驚く子供の耳もとで低く尋ねた男の声は、所作ほど酔っていないように思われた。  カシュカイは「はい」と答える。  カイセリはくりかえし最上の収集品だと言い、自身に所有権があるのだと語って聞かせた。  彼がそう言うのならば、スィナンである自分には従う以外の選択肢がない。  「きみがわたしのものだと印をつけておかなければ、誰かに盗られてしまうかもしれない」  カイセリは答えを求めるわけでもなく、ぼそぼそとつぶやく。  そして、ふいに胸もとのあわせに手をさしいれられて、カシュカイは驚愕して身をひいた。  髪にはたまに触れられたが、服の下へ同じようにされたことはこれまでなかった。  あまりに驚いて目を見開いたカシュカイに、男は冷たいまなざしを向ける。  「カシュカイ、わたしの言うことが聞けないのか」  子供は息をひきつらせた。  怒らせてしまった。  この人がまた何か月もここへおとずれなくなったら、はたして孤独に耐えられるだろうか。  「わたしの言うことが聞けないなら、もうおまえなど要らないよ」  「カイセリ様」  カシュカイは自分の倍ほどもある大きな手をとって、自らの胸もとへ押しあてた。  「ごめんなさい。ごめんなさい……」  謝罪をくりかえしたが、震える身体は急激に冷えていく。  男は従順な様子を見て、にこりと笑んだ。  「そう、いい子だね、カシュカイ」  熱をもった手が夜着の内へ入った。  カイセリがなにをしようとしているのか見当もつかない。  しかし彼が機嫌をそこねなかったのならそれが正しい態度であり、いつものように彼のやることに従っていればいいのだと思えた。  触れられる手のあまりの違和感に震える身体はどうしようもなかったが、じっと動かずカイセリが寝着を紐解いていくのをただ見ていると、突然彼が小さく笑いだした。  「ああ、なんてことだろう。きみは男の子だったんだね。いままで気づかなかったとは」  笑い声はより大きくなった。  「まだ幼いからか? ……いや、きみという存在の美に性差など関係ないんだ。すばらしい!」  男の手が荒々しくカシュカイの顔をシーツに押しつけた。  うつぶせにさせられた背後で、かた、と音がする。  これからなにがおこるのかとおののくカシュカイの後ろの狭間に、濡れた手が触れた。  「ひッ」  小さな背が反った。  長く背中のなかばまでのばされた髪がシーツに落ちる。  自分でも触れたことのない場所を濡れた手が何度もなぶった。  「カイセリ様」  呼ぶ声までが震えてしまう。  いまおこっている現実が理解できない。  いったい彼はなにをしているのだろうか。  気が動転しているうちに、ふと、濡らされた箇所がじわりと熱をもった。  同時に痒みをともなうような、これまで感じたことのない耐えがたさがわきあがってきて、カシュカイは思わずそこへ手をやった。  しかし鋭く手の甲を張られて、彼はびくりと後ろをふりかえる。  その瞬間、そこへの衝撃を感じて子供は悲鳴をあげた。  「あァ―――ッ!!」  ものすごい熱と圧迫感、激痛に内臓がせりあがってくる気持ち悪さが一度に襲いかかってきた。  師から杖や鞭で殴られる日常には慣れきっていたが、それらとはまったく違う種の暴力的な行いは、カシュカイを恐慌と混乱へおとしいれた。  「いッ、あぁァ!」  意味をもたない叫びだけが絶え間なく喉から発せられる。  「耐えがたい、汚い声をあげるんじゃないよ」  荒い息の合間から聞こえた声はひどく冷たかった。  カシュカイは嗚咽(おえつ)と共に「ごめんなさい」とようやくつぶやく。  あてもなくさまよわせた手が触れた寝台の真鍮の柱にしがみつき、その細腕に噛みついて漏れでる声をこらえた。  激痛と衝撃に何度も気を失い、身体じゅうの神経が麻痺し、それでもいままでに感じたことがないほどのどうしようもない痒みが波のように襲ってくる。  やがて思考を真っ白にするような別の熱が自らの内側で高まって、混乱のうちにそれを吐きだした。  自分の身におこったことが理解できず、カシュカイは恐ろしくて涙が止まらなかった。  「カ…セリ様、も……許して……」  許して、とうわごとのようにくりかえす小さな身体を、男は白々とした目で見下ろした。  興醒めした様子で身を起こすと大きく息をついた。  「しようのない子だ。主人を満足させることもできないのだね、きみは」  投げだされたシャツをつかむと、男は無造作に立ちあがった。  月明かりのなか、寝台の動かない身体をいちべつして室をでていった。  「カイ……」  名を呼ぼうとして、しかしかすれてうまくいかずせきこんだ。  呼ぶ相手はすでにいない。  嵐のようなできごとだった。  嵐は、カシュカイの身体のなかを吹き荒れていったのだった。  四肢が痺れて動かない。  いや、これは痛みのせいだろうか。  ぐち、と濡れた音がして、腿の内側になにかが伝って流れた。  ずいぶんな時間をかけてようやく見やると、自分のなかから血と白濁した粘液が流れでていた。  シーツには自分が吐きだした同じものが染みをつくっている。  カシュカイはしばらく呆然とそれらをながめていたが、知らぬ間に頬を濡らした涙はやがて嗚咽をともなって勢いを増した。  恐怖と混乱と、苦痛と、切り裂かれるような悲しみ。  どれもがカシュカイを覆いつくして、激しくこみあげてくる感情の波をおさえることができない。  動かない身体をなげだしたまま、十歳になったばかりの小さな子供は生まれて初めて声をあげて泣いた。  その悲鳴のような慟哭は、いつか意識を手離してつかの間の安楽を得るまで続いた。  ――次に目覚めたとき、身体も寝台のシーツも乾いて、汚れたところなどどこにもなかった。  奴隷の女が始末したのだろうか。  鉛のように重く感じる身体で起きあがろうとして、金属の耳障りな音が聞こえた。  寝台の柱に巻きついた鎖がこすれて鳴ったのだ。  長くのびる鎖は、手首をぐるりと覆う滑らかな革のベルトに繋がっている。  長さは身長の倍ほどはあるだろうか。  しばらく手首を見つめる。  心にわきあがったのは、安堵だった。  こんなことをさせるのはカイセリだけだ。  そうだとすれば、彼はまだこの身を捨てるつもりではないのだろう。  まだ役だつすべがあるのなら、もう決してカイセリの望みに反してはならないと自らに戒めた。  殴られ蹴られるよりもあの行為(・・・・)は恐ろしくてどうしようもなかったが、後ろの傷口はすでにふさがっている。  見えないものは、もとよりないのと同じことだ。  身体じゅうが痺れて重いのも、鈍く響く体内の疼痛もいずれ消えてしまう。  だから耐えられるはずだと、あのできごとを何度も夢にみて脅かされながら、カシュカイは自分に言い聞かせ続けた。  それから何日、何か月、何年が経ったのか。  手首の鎖と気まぐれに現れる男はカシュカイの一部のように身体に馴染み、彼は男のためにただ存在するだけの美術品となった。  いびつな閨の行為は、ほとんど奉仕的なものに変貌していた。  主人のたかぶりを口で、あるいは手で慰め、自らの内側を拓いてむかえいれるだけの行為。  ときには強制された自慰行為を、絵画が趣味だというカイセリに素描されるような異様なこともさせられた。  しかし、嗜虐的なひどい責めに許しを請うことはあっても、実際には法術で容易に断つことのできる鎖の戒めから逃れようとは思わなかった。  カイセリの望んだすべてに応えられたときの、彼の気まぐれな優しさのためだけにカシュカイはそこにいたのかもしれない。  寝台の上で主人を待つ数日、あるいは数か月は耐えがたい孤独だったが、不意に姿をみせる男はまれに笑みをみせることもあった。  いつも気を失うまで異常な、激しい行為を求められ、目覚めたときにかたわらにいてくれたことはなかったとしても。  ――しかし、あの日。  珍しく早朝に、カイセリは屋敷をおとずれた。  その表情は奇妙な高ぶりを含んでいた。  寝台に近寄ると、カシュカイに覆いかぶさるように顔をのぞきこむ。  「カシュカイ、きみは何歳になった」  「十五に……なったばかりです、カイセリ様」  少し驚きながらも、カシュカイはされるがままになって答えた。  「スィナンの成人は過ぎているね。だったら(つい)の契約がつかえる歳だ」  主人の口からでた思いがけない言葉に、少年は息をのんだ。  スィナンの特殊な成り立ちと環境から、一族の重要な記憶と伝統は、教わらずとも生まれたときからカシュカイのなかにも刻みこまれている。  むろん終の契約のことも一族共通の記憶として誰から教えられるまでもなく理解していたが、なぜカイセリがそれを知っているのだろうか。  男はその疑問を聞きとったかのように笑んだ。  「わたしは昔からスィナンに強い関心があってね。きみと出会ってから、よりいっそう一族に関する蔵書や研究書を多く収集してきたんだよ。最近手に入れた秘本に、終の契約についての記述があった。なんとしても試したいんだ。きみもそう望んでいるだろう?」  「カイセリ様」  少年はわなないて力なくつぶいた。  「終の契約は……とても危険です。命を賭けて行う呪詛だからです。成功するかどうか、私の意志では決められないのです」  「スィナンの一族の秘術だ、生死を分かつほどのものだからこそ、試す価値がある」  「あ、あなたを失うなど……耐えられません」  「カシュカイ」  名を呼ばれた、その声にはもう抗うことはできなかった。  絶望のうちに、少年は主人の望みを叶えた。  うまくいくはずがないとわかっていたのに、それでも、あの声には抗えなかった。 外伝一 記憶 END
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