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01 - 覚えている一番古い記憶
覚えている一番古い記憶は、自分が生まれたときだ。
その前に温かい液体のなかでゆっくりまどろんでいたような気がするが、はっきり覚えているのはそこから出て大気に触れた瞬間からだった。
女たちが歓喜にわいて赤子を腕に抱く。
しかし、その小さな左手を見て悲鳴をあげた。
「忌み子が産まれた!」
「もっとも我らを虐げてきた、神々の印を持つ子」
「スィナンが五十年ぶりに授かった希望の御子だというのに」
彼らの嘆きは深い。
人間の手で極北の地に封じられて七十年余り、その呪詛ともいうべき法術によって一族の多くが次々に死に、奇病、不妊が蔓延した。
そのなかで奇跡的に誕生した子供が忌み子だとは。
寝台で疲労の色濃く横たわる美しい女は、赤子に触れようとはしなかった。
「子など産まれても、もうあの人は死んでしまった。長様、呪われた子には忌み名を与え三日の後に処分するのが決まり、すべて長様にお任せします」
「では、この子は〈無き者〉と名づけよう。三日のあいだ死者の湖の水だけを与え、三日目の夜、死者の湖に沈めるのが定めだ」
――しかし、赤子がその湖に沈むことはなかった。
まさに三日目の日没というころ、老人が現れて赤子を連れ去ってしまったのである。
彼はアフシャールという名の、北東の国ヨルクの法術士だった。
アフシャールはスィナン封印の地オブルックを監視する役目を担ってきた一族の人間だったが、血縁のなかにはスィナンの犠牲になった者もあり、呪われた一族を憎悪していた。
そのけだもののなかにマラティヤが出現したと知らされたときの衝撃は、言葉では言いあらわせない。
そのうえマラティヤの子供をオブルックより連れだし密かに養育を命じられるなど、彼にとってどれほどの苦行だっただろうか。
しかし主国ビジャールからの密命には背けず、彼は人里から遠く離れた場所で赤子を養った。
マラティヤとしての宿命を語り聞かせ、法術や体術の訓練、教養や礼儀など膨大な知識を惜しげなく与える一方、人間には決して会わせず書物や文字を目に触れさせなかった。
命じたことや禁じたことにわずかでも沿わなければ容赦なく折檻を与え、スィナンの一族がどれほど穢れた悪しき種族なのかを呪いのように語って鬱憤を晴らさずにはいられなかった。
授業以外では食事や睡眠などの日常生活を共にせず、許可なく話すことすら禁じたうえ、指一本たりとも触れず触れさせもしなかった。
虐待と呼ぶのも生易しい壮絶な教育に物静かな幼子は従順だったが、アフシャールはむしろそれを恐ろしく感じていた。
いつか本能に目覚めて襲いかかってくるのではないかという恐怖から、姿が視界にはいるのさえ許容できなくなり、やがて理由もなく鞭や棒で殴打するようになった。
ほとんど正気を失っていたのである。
この拷問のような役目から解放されるのはいつかと、ビジャールの使者が知らせをもってやってくる希望だけを待ち続け、やがてアフシャールは老いて死んだ。
スィナンの子供は九歳になっていた。
しかし、彼は死というものがいまだ理解できず、老人が起きあがって話しかけてくるのをただ待っていた。
待つ、という意識は薄かったかもしれない。
子供は糧として人間の代わりに自然気流の摂取を強いられていたが、スィナンに喰われる恐怖から狂人となったアフシャールによって、食欲を減退させる毒草や神経を麻痺させ意識を混濁させる薬物を大量に与えられ、常に半夢遊状態で身体反応もにぶくなっていた。
何日が過ぎただろうか、ようやく薬の作用が抜け意識が明瞭になってきたとき、大きな獣が現れアフシャールの死体を喰い荒らして森へ去った。
その獣からは瘴気がただよっている。
瘴気をもつものは魔に属する種でありただちに滅するべき存在だと師に教えこまれたスィナンの子供は、獣を追って森の奥深くまで入りようやく殺すことができた。
しかし、もはや家の方向はわからない。
師を呼びたかったが、許しを得ていないため声をあげられず、しかたなく小さな足で歩きだす。
どれほど歩いても、緑が深くなるばかりでほかにはなにもなかった。
そもそも彼はアフシャール以外の人間を見たことがなく、住んでいた家のほかに建物を目にしたこともなかった。
何日も歩き続け、やがて疲れて座りこむと、そのまま眠るように気を失った。
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