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17 - はっと我にかえって
はっと我にかえって、気を失っていたかと焦ったアイディーンは、しかしそれがほんの一瞬のこととわかって小さく息をついた。
舐めた唇が乾いて冷たいのを感じ、おそらく顔色も良くないのだろうと思ったが、気にしている場合ではない。
つかの間沈黙を保っていた磔の魔族が目覚めて、再び声をあげていた。
意味をなさない音の渦が、否応なくその場にいる人間たちの耳を浸食する。
反応して光る術陣が異様な青さを発しており、正常に機能していないのはあきらかだった。
疲労と怪我のせいでなかば意識が朦朧としはじめていたエッシュは、うめくように言った。
「まずいですよ、ハユルさん……。このままじゃ、いずれアーシャーが解放されて……もし、逃げられでもしたら、子爵に……おれ……」
「エッシュ」
「子爵?」
ハユルの声とアイディーンの声が重なった。
エッシュは失神して、上体を傾けている。
「子爵とは誰のことだ」
アイディーンはエッシュの腕の傷に治癒法術を施しながら問うた。
彼の行動にいぶかしげな目を向けつつ、ハユルはおっくうそうに首をふる。
「答えると思うか」
仲間が自白を強要されるのもまのあたりにしていながら、あくまで拒否する強硬な姿勢に、アイディーンは苦笑した。
「まあ、事情はわかってきた。一介の組織がこれほどの規模の建物を所有しているとは考えにくい。だとすれば、支援者がいるのは当然だろう。それに、バズルリングというのは一枚岩ではないらしい。おまえたち上層部の連中は、魔属の帝国などつくる気はないんだろう」
ハユルは、ふん、と鼻を鳴らしただけだったが、答えはそれでじゅうぶんだった。
「ついでにいえば、その支援者も予想がつく」
青年の言葉にハユルは声を詰まらせる。
「この地下へ来るまでに、廊下の柱に刻まれているのをいくつも見たからな。簡略化した柄に模してあったが、あれはデニズリのとある古い貴族の家紋だ。そういえば、デニズリ王は近ごろ不浄に悩まされておいでとか。王太子問題で不安定な時機でもある。早期に結着をつけなければ、ビジャールが仲裁に乗りだしてくるかもしれない。悪くすれば属領に……」
「貴様、なぜそんなことを」
「少し調べればわかることだ。悪いが、この状況を放置しておくわけにはいかない。ビジャールには報告する義務がある。すぐに」
不意に言葉を失ったアイディーンが、天井を見あげた。
その行動にハユルは不審げに青年を見、それから上を見たが、なんの異変も見あたらない。
アイディーンが立ちあがって「まずい」とつぶやいたとき、初めてハユルも違和感を感じとった。
瘴気が近づいてくる気配だ。
疲労が極限まで達し、すっかり感覚が鈍っていたのだった。
しかし、いまや驚愕がハユルを満たしていた。
「なぜ、ま、魔族じゃないのか、これは」
「すでに捕捉されている」
アイディーンが低く言ったのと同時に、天井がみしりと鳴った。
天井だけでなく、壁も床も石という石がきしみはじめる。
次の瞬間、爆発音と衝撃が彼らを襲った。
石が砕け散り土砂が降ってきて、煙が舞いあがる。
混乱した叫び声をあげてハユルは逃げようとしたが、縛めのために動けず、その場にうずくまった。
意識のない上司と部下を気にかける余裕もない。
石の塊が落下しながらぶつかる音がくりかえし聞こえ、それがおさまったのはとほうもない時間のあとに思われた。
身体の震えがようやくおさまり顔をあげると、目の前はもうもうと土煙に覆われている。
伏していた頭のすぐ先にも身体の横にも巨大な石板があるのを見て、またぶるりと震えた。
それからやっとのことで仲間をふりかえり、自分たちの上には小石ひとつすら落ちてこなかった不自然さに気づいた。
よく見れば、周囲の石板はまるで床から生えてきたように直立している。
少し離れた所にいたアイディーンの周りにも同様に立ちふさがっていて、これらはあきらかに防御法術によるものだった。
青年は息を乱しており、彼がやったのは疑いようがない。
一瞬で、自分だけでなく他人まで守ったその判断と機動力は並ではなかった。
ハユルは、おい、と声をかけようとして、しかしそれは叶わなかった。
目が凍りついたように一点に吸いつく。
青年も同じものを見ていた——薄らいできた土煙の向こうに立つ魔族を。
「ヒィ」とハユルの喉から奇妙な音が漏れた。
「日に二度も魔族を目にするとはな」
アイディーンは嘆息して言ったが、その口調はあくまで平坦だった。
つい先ほどまでの息の乱れはなく、気がまえさえない。
むろん、それは意識的にやっていることだ。
魔族に対しては、わずかの隙も弱みも瞬時に死へ繋がると大いに理解しているからだ。
しかし、その自制は魔族の姿がよりはっきりと見えたときに、不意に乱れた。
瘴気に包まれた男の腕に抱えられた人物が、あまりに見知った者だったために。
アイディーンは思わず呼びかけた名をかろうじてのみこんだ。
名で相手を支配する技をもつ魔族に、不用意に知られるわけにはいかない。
気を失っているならなおさらだった。
腕一本で腰を抱えられたスィナンの青年は腕も頭もだらりと垂れており、一見しただけでは生きているのかどうかもわからない。
「どうやら」
魔族の男はようやく口を開いた。
「これの知り合いかな」
自分の腕のなかを見おろす男は、直前に部屋を破壊した異常さなど微塵もなく、通りすがりといわんばかりに無造作に瓦礫の合間を通ってくる。
自分が尋ねたにも関わらず、男は青年がものを言う前に横へ目をやって声をあげた。
「ああ、アーシャー、こんなところにいたんだね。なんとも奇抜な恰好だ。人間に好きなようにさせて、おまえの自尊心は傷つかないのかい」
磔の魔族へ呆れたように言う男は、緊張感のかけらもない。
しかし、その身の内から不快あるいは怒りといった感情がにじんでいるのが、アイディーンにはわかった。
ここへ来た理由やアーシャーとの関係など疑問は尽きなかったが、いま確かめるべきは一点だけだ。
「その男は生きているのか」
青年の低い問いに、魔族はちらりとふりむき浅く笑んだ。
「やはり、おまえもマラティヤなのだね」
「……見たのか、紋章を」
「見たとも。美しい、忌まわしい風と光の神の爪痕だ。今期のマラティヤは趣が違うと噂だったが、なるほど、これは珍しい」
「どこで捕らえた。連れまわしてどうするつもりだ」
感情を律して問うのに、そうとうな自己抑制が必要だった。
なりふりかまわず奪いかえしたい衝動にこぶしをにぎる。
それはあまりにも無謀なことだ。
魔族は激情のままに正面からまともにぶつかって勝てる相手ではない。
自分が傷を負うのみならず、カシュカイの身を危険にさらすふるまいは、避けなければならなかった。
魔族は笑みを深める。
「さあて、どこでだったか、このスィナンがアーシャーの腕の封印を解いてくれたのだよ。だからというわけではないが、気にいったのでしばらくぼくの玩具にすることにしたんだ。だが……」
男は、いたずらを思いついた子供のような顔をした。
「アーシャーの左腕がちょうど切りとられていたのでね、どうせならスィナンの腕をつけてみようと、そんなことを考えてみたのさ」
まさか、と血の気の引いたアイディーンの前で、男はことさらゆっくりと懐からとりだしてみせた。
それは、手の甲に藍の紋章がくっきりとうかびあがった白い腕だ。
どうだ、と男が得意げに言った直後、衝突音が響いた。
瞠目する男のあご下、首の皮一枚という場所に長い槍が突きたっている。
鉱物でできたそれは、背後の石壁に深くくいこんでいた。
「物騒な……」
つぶやく男をアイディーンはただ見ていた。
怒りという感情が形になる前に、体内の爆発的な衝動が凄まじい意志となって、印はおろか言葉すら必要とせず精霊を動かしたのだった。
魔族は紙一重で回避したが、自らの行動がマラティヤの逆鱗に触れたことを悟り、ひどく警戒すべき状況になってしまったのを認めないわけにはいかなかった。
「やれやれ、この場で厄介な争いごとをする気はないよ」
男は首をふって、抱えていたスィナンの青年を放りだした。
アイディーンが目をやった一瞬に、男は磔の魔族のそばへ移動している。
「腕を戻せ」
今度はあきらかな怒気をはらんでアイディーンが言った。
沈黙したままだが、意識はあるらしい囚われの魔族の青年を見ながら、男は再び笑みを漏らした。
「ぼくは割と親切なたちでね、アーシャーの腕を代わりに繋いでやったから、それで納得してくれないか」
「ふざけるな」
言葉と同時に法術をくりだしたアイディーンの攻撃をこらえて、魔族は呪を発動させると、鋭い光の発散と共に姿を消失させた。
またいずれ、と室内に声が響く。
アーシャーの礼だけはさせてもらった、とも。
真意のくめないアイディーンはわずかにいぶかしい表情をつくったが、それより優先すべきは投げだされたカシュカイだった。
「おい、カシウ」
スィナンの青年の上半身を抱きおこして声をかけたが、力ない身体はしんと冷えている。
治癒法術をかけてみたが術反応自体がないので、気を失っているだけだとわかってようやく安堵した。
いや、気がかりはある。
魔族の男の言葉通り、左肩には紋章のない腕が接合されていた。
「くそッ……」
あの男を殺せなかった後悔と怒りがわきあがり、アイディーンは口汚く罵った。
とにかく、この腕をこのままにしておくわけにはいかない。
同族間でも難しい身体の融合が、異なる種族で成立するわけがない。
しかも相手が魔族となれば、どんな拒絶反応があるかわからない。
アイディーンはしばらく腕を凝視したが、おもむろに印を組みはじめた。
「——風の神ファルクの名において……」
空気の刃が迷いなくカシュカイの左腕の付け根を切断した。
素早く法術で止血と応急処置を施し、深く息をつく。
わずかも動かないカシュカイに苦痛の色はなかったが、アイディーン自身がひどい苦痛を感じて顔を伏せた。
法術とはいえ、肉と骨を断つ感触は心底ぞっとする。
騎士、法術士、あるいはマラティヤとして馴染んだもののはずが、今回ばかりは冷静さを保つのが難しかった。
「ビジャールに戻ったら治癒してやるから」
青年の頬についた土汚れを拭い、アイディーンは痩せた身体を丁寧に抱きかかえた。
そこでようやくハユルたち三人のことを思いだし部屋の扉のほうをふりむくと、皆うなだれてじっとしている。
ハユルだけは意識があったはずだと近づき、彼は眉を寄せて立ちどまった。
三人の周りは血溜まりになっている。
皆胸のあたりにこぶし大の穴があいていて、そこから出血しているのだった。
アーシャーの礼をすると言った魔族の言葉が蘇り、苦々しさがアイディーンを侵す。
急に疲労の重荷がのしかかり、彼はしばらく立ちつくしたままその場から動けなかった。
第六話 噂 END
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