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05 - 果物屋の主人の挨拶がわり
「アジズ先生じゃないか。久しぶりだねえ、ひとつ持っていきな」
果物屋の主人が挨拶がわりに投げてよこしたオレンジをうまく左手で受けとった男ーーザフェルはその手をあげて礼を言った。
「ありがとよ。娘さんは元気か」
「ぼちぼちな。アジズ先生こそ王宮勤めになったはめでたいが、うまくやっていけてんのかい」
「そりゃまあ、ぼちぼちってところだな」
主人の冷やかしに笑って返して、ザフェルは店の前を通りすぎた。
ビジャールの首都カルデシュの私塾で子供たちに読み書きを教えていた彼は、勤め先を変わったいまでも先生と呼ばれることがある。
私塾をやめたのは、王宮に召し上げられたためだ。
ザフェルは法術士の資格をもっているが、ビジャールではその修練度によって七つの位に分けられており、〈無位〉から〈始位〉〈次位〉〈恵位〉〈差位〉〈転位〉、そして最高格の〈開位〉がある。
彼は数年前に上格として区別される開、転、差のうち差位に到達したので、王宮勤めを許されたのだった。
しかし彼が熱心どころか、まともに法術をあつかうところなどみたこともなかった私塾の生徒の親たちは、当時たいそう驚いたものだ。
上格の法術士といえば上流階級といってさしつかえなく、どれほど修練を積んでも一生かかって恵位止まりの者がほとんどである。
二十六歳で差位を得たとなれば、すばらしい才能をもった法術士といっていいはずなのだが、ザフェルはどこまでも緊張感がなく、王宮勤めになってもふらふらと城下街を出歩いては酒場や妓館を行きつけにしているので、一見するとその日暮らしの遊び人にしかみえない。
しかしそんな気安さがかえって街民には受けがよく、私塾の教師をやめてからもよく声をかけられるのだった。
その日、昼さがりになってから街をぶらついていたのは、最近お気にいりがいる妓館へ行くついでに、指輪のひとつでも買っていってやろうと思いたったからだった。
宝飾品店は花街の手前にかたまっているので、ザフェルは冷やかし半分で連なる店々をはしごしながら物色していた。
日没までわずかという時分、通りすぎようとした一軒の宝飾店の前ですいよせられるように立ちどまったのは、硝子張りの贅沢なかまえの店の奥に覚えのある顔をみつけたからだ。
いや、見覚えなどというおぼろげな記憶ではない、彼の脳裏に鮮明に焼きついている人物——大気のマラティヤである。
フードのようなものをかぶっているが、わずかにのぞきみえる横顔の怜悧な美貌とすらりとした立ち姿は、そうそう忘れられるものではない。
「ビジャールに戻っていたのか」
ザフェルの記憶に間違いなければ、大気のマラティヤは数か月前にビジャールを出国して以来、一度も王宮に出仕していないはずだ。
みるからに高級なこの宝飾店でいったいなにをしているのかと店内をのぞきこむと、店の主人と話をしているのは大気のマラティヤの隣にいる青年で、卓に広げられた商品のいくつかを指し示しながら、手に持っていたこぶしほどの大きさの包みをさしだした。
こういった高級店では多くが特注なので、その青年も持参した原石の加工か装飾品の修理を頼んでいるのだろう。
見れば、彼は貴族のようだ。
着ているものやふるまいで、だいたいの階級はわかるものである。
「こんなところで、なにしてんだかなァ」
ザフェルは人悪く笑んでつぶやいた。
これを利用しない手はない。
彼らにみつからないようにその場を離れると、ザフェルは小さく鼻歌をうたいながら、花街ではなく王宮へと戻っていった。
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