01 - 乱立する木々の合間を

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01 - 乱立する木々の合間を

 乱立する木々の合間を縫って走っていると、急に視界が明るくなり草原がひらけた。  ただ夢中で走ることだけに集中していた少女――ウーラは、そこが町からより遠ざかった場所だと気づいて蒼白になる。  彼女は魔獣に追われていたのだった。  薬草を採るために町近くの森へ入ったが、それに気をとられすぎて奥深くまで入りこんでしまった。  このあたりはこれまで魔属がでたという話はなかったが、いままさに感じる瘴気は魔属以外のなにものでもない。  ウーラは異質のものを感じられるだけの勘の鋭さをもってはいたが、法術士の見習いで術を扱うのもおぼつかず、もとより術種そのものもろくに知らないごく初心者だったので、魔属に対抗しあまつさえ倒すなどという芸当ができる技量はもちあわせていなかった。  法術が扱えないとなるとウーラは十六歳の非力な娘でしかなく、武器もない状況ではひたすら逃げる他ない。  町から遠ざかってしまったのは絶望的だが、陽を遮るもののないひらけた草原なら魔属の攻勢も鈍るだろうと足を踏みだしたとき、天から見放されたように太陽が雲間に隠れてしまった。  光を厚いベールに隠された地上は、急速に色を失って寒さを誘う。  同時に、荒い呼吸が聞こえてきた。  ウーラは顔をひきつらせて再び走りだしたが、すでに疲労の濃い身体は足をもつれさせて倒れこんだ。  木々の陰から大きな獣が近づいてくる。  獰猛な牙をもつ巨大な猫の見た目をもつシミットという魔獣だ。  後足で立ちあがれば確実にウーラより勝るに違いない、大きな四肢は強靭な筋肉に覆われている。  シミットは少数の群れで行動するのが常なので、ここに一頭いるということは近辺にまだ二、三頭は潜んでいるだろう。  ウーラは恐怖と共に死を覚悟した。  どうあがいたところで、一頭すら倒すすべはなかった。  あまりの恐ろしさに気を失いそうになった、そのとき。  「ギャン!」と割れるような鳴き声と同じくして、目前の獣が突然地に伏した。  激しく痙攣するその身体から首が離れて転がる。  あっという間にできた血だまりを呆然とながめるウーラの前に、誰かが歩いてきた。  その人物は右のほうに顔を向けると、なにかをつぶやいて右手で指すしぐさをした。  すると風がわきおこり、その人の示した先へ強く吹きつける。  すぐに遠く木々のなかで悲鳴のような声が二度聞こえてきて、どさりとものの落ちる音がした。  「あ、の」  ウーラはその様子を始終まばたきもせず見つめた。  自分の窮地を救ってくれたらしいその人が若い男だと気づいたのは、さらにしばらくしてからだ。  痩身で頭を布で覆っているので女性かと思ったが、背が高く、よく見れば男だとわかる。  彼は無言でウーラを見おろした。  「あの、助けてくださってありがとうございます」  少女は慌てて立ちあがり胸に手をあてる。  万にひとつもないような幸運がおとずれたのだということを、彼女は感じずにはいられなかった。  「――ウーラ・セルチェか」  唐突に青年は問うた。  「は、はい、そうです」  少女が驚いて答えると、彼はくるりと背を向けてもと来た道を歩きはじめた。  「ウーラ・セルチェをさがすよう依頼を受けている。ついてこい」  誰に、と尋ねたかったが、少女にそれはできなかった。  一度も後ろをふりかえらない青年に、完全に気おくれしてしまっていた。  いや、ちらりと見おろされたあの瞬間に、わけもなく鳥肌がたち寒気を覚えたのだった。  彼はあきらかに近隣の住人ではない。  いでたちは異国のもので言葉に訛りがなく、十六年ここで暮らすウーラが見たこともない人物だ。  それにこの魔属とも見まごう白皙の美貌の青年は、一度でも目にすれば忘れたくともできないだろう。  すらりとした長身の、しかし屈強とはほど遠い優美な佳人がくりだした苛烈な法術を、少女は妙に倒錯的な光景として脳裏に焼きつけた。  はっきりとは聞こえなかったが、わずかな詠唱と指先で指し示すしぐさだけで法術を発動させたその難しさは、見習いの身のウーラにも察せられる。  それに応えた精霊の機動の速さや規模は術士の力量を物語っていた。  あれほど高度な術を、彼女は師にも見たことがない。  法術士の端くれとして、彼女は敬意と好奇心をいだかずにはいられなかった。  「もしかして、あなたは高名な導師様ですか」  意を決して尋ねてみたが、前を歩く青年にはなんら反応がない。  周囲に鳥と木々の音しかしない森のなかで聞こえていないわけはなく、意図的に無視されているとしか思えないこの状況は、勇気をだして話しかけた彼女にとってひどく気まずかった。  さきほどの青年の口の重さからすると、ずいぶん寡黙なたちのようである。  奇妙な沈黙のなか歩き続ける青年の早足に遅れまいと、少女はほとんど小走りになりながらついていったが、しばらくすると不意に青年の足がぴたりと止まった。  彼の足もとばかりを見ながら歩いていたウーラはまともにその背にぶつかってしまい、慌てて離れて謝罪したが、彼はあたりを探るようにゆっくりと視線をめぐらせていて、少女の行動になどまるで無反応だ。  隙のない所作にウーラのほうが緊張してしまい、息を潜めて周囲をうかがっていたものの、厳戒を呼びおこすような異常はなにも感じられない。  しばらくすると、青年は何事もなかったように再び歩きだした。  彼の行動は始まりも終わりも唐突で、ウーラはついていくのに必死だ。  連れなどいないかのような無造作なふるまいが故意なのか、なにかほかの意図があるのか、少女にはとうていわからない。  ただその横顔の恐ろしいような美しさだけが、まぶたに焼きついた。  完全に感情というものをぬぐいさった美貌はいっそ人間離れしていて、神だといわれても納得してしまいそうになる。  窮地を救ってもらったとはいえ、正体の知れない男にのこのこついていったのは、彼があまりに常人離れして現実味のない存在感だったからかもしれない。  青年はときどきわずらわしそうに周囲へ目をやっていた。  いや、わずらわしそうだというのもウーラが勝手に思っただけで、実際彼の顔に思惟をうかがわせるものはなにも読みとれなかったのだが。  しかし少女は彼の行動の意味を考えるより、真っ白な肌に影を落とす長いまつ毛をゆっくりと瞬かせながら流す視線のなまめかしさに、目を奪われてしまっていた。  なんらかの本能的な恐怖がずっと警鐘を鳴らしているのに、わずかな彼の動きがウーラを捕らえて離さない。  彼女はまだ遭遇したことはなかったが、妖艶な美貌でもって人間をとりこにするという魔族は、彼のような姿をしているのではないだろうか。  追いかけるように歩きながら見つめていると、ふと青年の背中の意外な細さに気づいた。  それどころか、首すじも腕も大人の男とは思えないほど繊細である。  痩身だとは思ったが、背の高さと近寄りがたい雰囲気が、もっと頑健な体格と錯覚させていたのだった。  なんとなく見続けていることができなくなり、少女は顔を伏せて黙々と青年についていった。  それからどれほど歩を進めたか――ウーラにはとほうもなく長い時間に感じられたが、ようやく道らしい道がひらけ草木の合間に家々がみえてくる。  人々に好奇の目で見られるのではと思うと恥ずかしく、彼女はじっとうつむいた。  しかし、彼女の心配をよそに整備された道へでても町人には一度も出会わず、昼さがりの時分であれば和やかに世間話を楽しむ老人や畑仕事に精をだす男たちをみかける界隈も静まりかえっていて、常の風景とは大きく異なっている。  なぜ誰もいないのかと少女が思わず顔をあげて辺りを見まわすのにもかまわず、青年は変わらぬ足どりで通りを横切って一軒の屋敷の門前に立った。  「あ」とウーラが思わず声をあげたのは、青年に頼みごとをしたのが誰なのか気づいたからで、つまりそこは彼女の家なのだった。  いや、彼女の家というのは語弊があるかもしれない。  少女は屋敷で一房を与えられた、住みこみの使用人だったのである。  主人がわざわざ人を使ってまでさがしてくれたのかと思うと、ウーラは申しわけなさと感謝とで複雑な心境だった。  青年が門をくぐって屋敷の扉に近づいたのと、そこから人がでてくるのがちょうど同時で、少女はまともにその人と目が合ってしまった。  でてきたのは青年だ――それも、あたりを払うような秀麗な。  ウーラはぽかんと口を開けたまま、立ち止まった。  今日はなんだかひどく美しい人ばかりを目にする日だ。  ただ美しいというだけではなく、常人とは一線を画す雰囲気をまとった人々である。  自分をここまで連れてきてくれた青年とはまるで対照的な雰囲気のその男は、穏やかな表情をたたえて歩いてきた。  ゆるく結った長い髪は女性もうらやむ鮮やかなエメラルドで、水が流れるように肩からさらりとこぼれ落ちた。  まとう空気が初夏の太陽に似て暖かくおおらかで、少女は無意識にほっと息をつく。  そこで、自分がずっと緊張していたことに気づいた。  黒髪の青年の怜悧で冷たい雰囲気が、少なからず彼女を精神的に消耗させていたのだった。  「ウーラ嬢は無事か」  心地良い低い声と共に男はにこりと笑んだ。  笑みは少女へ向けたものだ。  常人離れして整った顔だちでありながら、彼には少しも近寄りがたさがない。  近くで見ると意外に歳若いようだ。  明瞭な覇気と鷹揚な雰囲気が、男に対する第一印象を老成したものにしている。  男は少女の身体に大きな異常がないのを見てとると、少し揶揄するような笑みを浮かべて青年に目をやった。  「なんとも珍しい姿だな、カシウ。おまえが誰かの世話を焼くのを初めてみた」  カシウと呼ばれた青年の反応は後ろにいたウーラからはわからなかったが、男が青年の顔を見ておかしそうに笑ったのには驚いてしまった。  知り合いらしいこの男の前では、彼も豊かな感情をみせるのだろうか。  「あの」  ウーラは気安い男の様子に後押しされて声をかけた。  「あなた方に旦那様が、タラマ様があたしをさがすよう頼んでくださったんでしょうか」  「ああ、俺たちが法術士と知って、ギャレリヤ夫人が使いを寄こしてきた。きみがいつもの薬草採りに使う森で、魔属の目撃情報があったらしい。そうとう慌てていらしたよ」  「あ、ありがとうございました」  「どこか怪我をしたなら、治癒術を施してあげようか」  「いえ、大丈夫です。そちらの法術士の方が助けてくださったので」  言ったそばから、ウーラは後ずさった拍子に小石にかかとをひっかけてバランスを崩す。  男はさっと手をさしだしてウーラを支え、手をとった。  「無理はしないがいい」  その行動はなんの他意もなくごく自然なものだったが、ただでさえ異性からそんな丁寧なふるまいをされたことがないのに、芸術的なまでに優雅な男が自分を気遣っているという事実に緊張しすぎて、まともに顔も見られない。  ごく近くに立ってみると、彼がとても長身であるのに気づいた。  並の男性より高いだろう黒髪の青年よりも、さらに頭半分以上は上背がある。  かといって鈍重な印象はまるでなく、精悍な体格をしていて動きはいたって機敏で軍人のようだ。  「ギャレリヤ夫人に元気な姿をみせてあげるといい」  男は屋敷の扉をあけてウーラを促す。  彼女はそうだった、とうなずいて足早に室へ入った。
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