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終章 大神官
夜明けを待たず、エレミヤはネブザラダンを帰した。
時間がないのだ。
この後のことは、ネブザラダンには見られたくない。たとえ、その記憶は消せるとわかっていても。
気怠い体をもてあましながら、エレミヤは寝乱れた寝台の上に腰を下ろした。まさに、それを狙いすましたかのように、白い光の球体が部屋の隅に現れた。
「神の使いの降臨か」
疲れた顔に、エレミヤは皮肉に満ちた笑みを浮かべた。ネブザラダンには一度として見せたことのない表情だった。
――また、交わったのか。
光はエレミヤにだけ聞こえる声で、なじるように言った。
――あと少しでおまえは帰れるはずだったのに。いつもいつも、おまえは直前になって罪を犯す。
「仕方あるまい」
軽く羽織っただけの衣の襟元を押さえて、エレミヤは自嘲気味に笑った。
「あの男が私の前に現れるのは、常に〈降臨祭〉の前なのだから。時が移り、名が変わろうと、あの男は今宵に私を求めるのだから」
――帰りたくはないのか。我らの世界へ。
エレミヤは答えず、ただ笑った。
――脆弱な人の体に縛られて、人と交わることを禁じられても、それでもおまえはこの世界に留まりたいのか。同じ過ちを繰り返したいのか。
「過ちか」
エレミヤは、またあの皮肉めいた笑みを浮かべた。
「人界へ降り、あの男を愛したのは過ちか。おまえたちには、何の関わりもないことだろうに」
――我らは……いや、私はおまえを失いたくない。わが同胞よ。
「だから私を捕らえて、主の前へと引き立てたのか。私にこんな罰を与えたのか。――物は言いようだな」
エレミヤは眉をひそめて、胸を押さえた。苦しい。そろそろこの体にはいられなくなってきたようだ。
――それでも、おまえは繰り返す。あの男と恋をする。幾度繰り返せば気がすむのだ。あの男と添い遂げることなど、望むべくもないのに。
「おまえたちにはわかるまい」
苦悶に歪む顔を上げ、エレミヤは不敵に笑った。
「それでも、私は彼と恋をして、永劫の罰を受ける苦しみのほうを選ぶ」
――……百年後にまた迎えにくる。
そう言い残して、光は消えた。同時に、エレミヤは寝台に倒れこんだ。荒く息をついて肩を抱く。
エレミヤは――いや、「彼」は汚れた体に長く留まることはできぬ。早急にこの体を捨てて、また新しい器を見つけなければ。まだ汚れを知らぬ、人々が好みそうな美しい男女を。
もう幾度も繰り返してきた行為。そうして適当な人間を乗っとったら、神託と称して神官たちを迎えにこさせる。簡単なことだ。しょせん神官とは、「彼」のあやつり人形にしかすぎないのだから。
また、「彼」がこの罰から逃れることも、そう難しいことではない。百年に一度の〈降臨祭〉のとき、清らかな身でいればよい。それだけで「彼」はかの地に帰れる。
なのに。
いつも、その直前になって、あの男は現れる。
遥かな昔、初めて会った、あのときの姿のままで。
たぶん、これこそが罰。愛する男と巡り会っても、情を交わせぬ、これこそが罰。
あの男と契って同じことを繰り返すか。それとも、あの男を拒んで、今度こそかの地に帰るか。
いつも、この〈降臨祭〉の夜に「彼」は決断を迫られる。そして、あの男と契ることのほうを選ぶのだ。いつもいつも。
肉欲に溺れているわけではなかった。ただ、二度とあの男と会えなくなることが辛いだけだ。
でも、もしかしたら、自分はこの罰を楽しんでいるのかもしれない。何度でもあの男と巡り会うことができるから。何度でもあの男と恋をすることができるから。
「彼」はそっとエレミヤから離れた。今の「彼」の姿は人には見えぬ。エレミヤは寝台に長い銀髪を投げ出して、まるで眠っているかのように横たわっていた。
今年の春、「彼」がエレミヤに憑いたときに、エレミヤの魂は「彼」と同化していた。ゆえに、「彼」が離れれば、エレミヤは、正確にはエレミヤの体は死んでしまう。だが、そのことに対する罪悪感などは「彼」にはない。これでまた一人、死因不明の〈大神官〉が増えたと思うだけだ。後の処理はいつものように、神官たちがうまくやってくれるだろう。
器を見つける前に、「彼」にはやらねばならないことがあった。
記憶を消さなくては。
まず、神殿の衛兵の、今宵ネブザラダンが神殿を訪れたという記憶を。
次に、ネブザラダンの、今宵神殿を訪れて、エレミヤと契ったという記憶を。
――エレミヤが死んだと知ったら、ネブザラダンは悲しむだろうか。
ふと「彼」は思った。
それもまた、主の与えた罰だったかもしれない。ネブザラダンが愛したのは、あくまで「エレミヤ」という名の〈大神官〉であり、「彼」ではないのだ。「彼」にとっては、あの男もネブザラダンも、同じ一人の男であっても。
だから、今度の新しい器は、できるだけエレミヤに似た器にしよう。ネブザラダンが懐かしがって、また神殿を訪れるくらい。そうなっても、もうネブザラダンは自分を求めたりはしないだろうけれど。
開け放した窓から、「彼」はまだ暗い戸外へと滑り出た。いつか、小鳥を追って転落したあの窓だ。そう思ったとき、「彼」はあの男と初めて会ったときのことを思い出し、思わず笑った。
あのとき、あの男は傭兵だった。「彼」の背にはまだ輝く翼があり、崖っぷちに腰かけて海を眺めていた。
たまたま近くを通りかかったらしいあの男は、明らかに人ではない「彼」に、何の屈託もなく、こう声をかけてきたのだった。
――その翼は、空を飛べるのか?
―了―
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