序章  降臨祭

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序章  降臨祭

 都は、百年ぶりの〈降臨祭〉で賑わっていた。  今宵ばかりは、老いも若きも男も女も、身分を問わず無礼講。酒を飲み、料理を食らい、大通りで踊り狂う。  しかし、そんな都の喧噪を、ひとり憂鬱な表情で、眼下に眺める者もいた。  彼の名はエレミヤ。この国の神殿に仕える〈大神官〉である。容貌は神にいちばん近い者にふさわしく、人並はずれて美しい。腰を覆うほどに長い白銀の髪は、〈大神官〉の純白の衣と共に、闇に浮かび上がっている。  その彼は今、祭りに参加しようともせず、かといって、神に祈りを捧げるわけでもなく、ただ神殿の暗い一室で、窓際に椅子を置き、頬杖をついて、外の様子をぼんやり眺めているのだった。 「ご退屈ですかな、神官殿」  突然、そんな男のおどけた声がエレミヤにかけられた。エレミヤは我に返り、あわてて入口のほうを見た。 「近衛隊長殿……」  エレミヤは呟き、ほっと安堵の溜め息をついた。 「おどかさないでください。それに、どうしてここにあなたがいるのですか? 今宵は誰もここへは入れぬはずですよ?」 「まあまあ、そう堅いことを言わずに。百年ぶりの祭りではないか。……そちらへ行ってもよろしいか?」 「まったく、どうやって忍びこんだものやら。――どうぞ」  エレミヤが促すと、男は静かに彼のそばに立った。  長身で屈強な男である。普段は鎧姿だが、さすがに今日ばかりは軽装だ。黒髪の、なかなかに整った顔立ちをした男であった。  男の名はネブザラダン。エレミヤが呼んだとおり、この国の王の近衛隊隊長を務めている。エレミヤより年かさであるが、彼もまた若くして重要な職についていることには変わりない。  終生、神の代理人として神殿で過ごさなければならないエレミヤにとって、ネブザラダンは唯一無二の友人であり、彼にだけは〝〈大神官〉殿〟ではなく〝神官殿〟と呼ばせていた。だが、ここ数週間は〈降臨祭〉の準備に忙殺され、ずっと会えずにいた。 「どうしました?」  自分をじっと見つめているネブザラダンの視線に気がついて、エレミヤは怪訝に彼を見やった。 「貴殿に用がある」  ぽつりとネブザラダンは答えた。 「用? 何です、それは? 私でお役に立てることならば、できるかぎりのことはいたしますが……」 「そうか」  ネブザラダンは少し笑った。大柄な身を屈めると、エレミヤの髪を掬いとり、それにそっと口づけた。 「汚れなき神の御使いよ」  呟くように彼は言った。 「願わくは、せめて一夜だけでも、その清らかなる御身に触れさせたまえ」 「……何のご冗談です」  無表情にエレミヤは切り返した。しかし、これが戯れなどではないことは、すでに知っていた。 「冗談などではない」  案の定、ネブザラダンは否定した。エレミヤの髪は握ったままだ。 「俺は本気だ――今まで幾度貴殿をさらおうと思ったか知れぬ。神の怒りなど恐れぬが、この国の者すべてを敵に回す勇気は持てなかった。俺の一族郎党を犠牲にする勇気もな」 「では、そのような世迷い言を言うのはおやめなさい」  毅然とエレミヤは言い放った。 「いくら無礼講の夜とても、言ってはならないことがあります。今ならまだ間に合います。お帰りなさい」 「貴殿は俺が嫌いか?」 「そういう問題では……」 「今宵はここには貴殿しかおらぬのだろう? 衛兵どもも一人もおらぬ。せっかくの祭りだ、俺が代わってやろうと申し出たら、喜んで代わってくれた。普段なら到底あり得ぬことだ」 「今夜のあなたはどうかしている」  呻くようにエレミヤは言った。 「いつものあなたはどこへ行ったのです? あなたまでもが都の民と共に祭りに浮かれているのですか?」 「かもしれぬよ、神官殿」  ネブザラダンは苦笑し、エレミヤの髪をさらに大きくつかみとった。 「神官――いや、エレミヤ。貴殿は何にもまして美しい。神のものであるのが口惜しいほど、貴殿は美しい」 「近衛隊長殿……」  ネブザラダンに髪を握られたまま、エレミヤは当惑して彼の真剣な顔を見上げた。 「これから先……貴殿は死ぬまで神のものだ。今宵だけ、二度と貴殿にかようなことは言わぬ。だから――」  外では祭りが最高潮を迎えていた。だが、もうその騒音も耳には入らない。  ネブザラダンの手を振り払うことはたやすい。彼は決して強くはつかんでいなかったから。しかし、エレミヤはそうしなかった。  ――愛していたからだ。
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