第一部 一九四一年、冬

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そんな事を思い出しながら足元に気をつけて歩いていく。 杖をつく地を選びながら足を動かしていれば意識がおざなりとなっていた正面から声が聞こえてきた。 「晶さんっ! 」 品のある美しい声が己の名を呼んでいると、晶は顔を上げる。 すると其処には藤色の着物に山吹色の羽織を着た美しい女性が土間から一段高い床の上に立っているのを見つけた。 黒色の髪は纏め上げられ、涼やかな目元に少しだけ母を感じ晶はすぐさまその女性こそが佐伯夫人であると直感する。 年の頃は晶の母と同じくらいであろう。 着ている着物に多少の差異はあるものの雰囲気も似通ったものがあり、晶は初めて見る佐伯夫人の姿をじっと見つめてしまった。 「さあさあ。道中疲れたでしょう? どうぞ上がってちょうだい」 その言葉に晶はハッとすると、頭を下げて佐伯夫人へ挨拶をする。 「あっ、あの...ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。母の要望により此方で住まわせて頂けるとの事本当にありがとうございます」 「どうか宜しくお願い致します」と緊張しながら言うと頭上からクスクスと笑う声が聞こえてきた。 「礼儀正しいのも八重子お姉さんにそっくりね。そんなに緊張しないでちょうだい」 その楽しそうな声色に顔を上げれば此方を見て笑う佐伯夫人の姿があり、恥ずかしさから晶は顔を赤くした。 「さあ、奥の部屋に娘もいるの。貴方の再従兄弟(はとこ)にあたる子よ。紹介するから...」 そうふわりと笑いながら言うと佐伯夫人は廊下を歩きはじめようとした。 「あっ、あの奥様っ」 その姿に晶は焦ったように声を掛ける。 振り向いた佐伯夫人が不思議そうな顔をした。 「どうしたの? 」 佐伯夫人が美しいのは何も姿形だけではない。 着ている藤色の着物も山吹色の羽織も汚れなど無い綺麗なものなのだ。 しかもそれはここまで案内してくれた隣にいる白髪の女性とて一緒である。 身なりの整った女性二人を前に恥ずかしくないようにと着て来た筈のカーキ色の国民服も道中の汚れが気になりつい佐伯夫人に声をかけてしまった。
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