第一部 一九四一年、冬

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「あの...道中..衣服が汚れて...その..」 声が小さくなるのは申し訳なさからのもので晶は何となく己の顔が情けなくなっているように思えた。 「.....」 晶の言葉を聞きじっとその出で立ちを見つめた佐伯夫人は晶の杖のない手。右手を掴むと視線を晶に向け口を開いた。 「何を言っているの。道中多少の汚れなど仕方ないものですよ。外から戻ってきた男性たちは皆一様に汚れているものです。貴方も男性ならそんな事気にする必要などありません」 そう言うと佐伯夫人は目を細め微笑んだ。 その姿に晶は姿形とはまた違う佐伯夫人の美しさを垣間見た。 心の何処かでは、母が無理矢理頼み込み佐伯夫人は嫌々ながらも受け入れてくれたのかもしれないと思っていた。 しかし佐伯夫人の態度に温かみを感じると少しだけ目元が潤んだ。 佐伯夫人は晶が靴を脱ぎ玄関を上がると握っていた手を離した。 「さあ、此方ですよ。あっ、キヌさんは悪いけどあったかいお茶を用意してちょうだい」 「はい。かしこまりました」 佐伯夫人の言葉にこの場所まで案内してくれた女性、キヌは頭を下げ歩きはじめた。 「あっ...キヌさん! ありがとうございました」 慌てて頭を下げた晶にキヌは微笑みながら一礼すると今度こそ去っていった。 今度こそ佐伯夫人の後ろをついていけば煌びやかな扉が目に入った。 外から見た限りでは日本家屋のようだと思っていたがこの部屋は違うようで佐伯夫人が扉を開けば洋風の卓子(テーブル)があり椅子には明らかに己よりも年下であろう女の子が一人座っていた。 扉の開閉の音により気づいたのだろうパッと顔を上げると「貴方が晶さんねっ! 」と立ち上がり言い放った。 溌剌とした声についびくりとしてしまう。 椅子から立ち上がった女の子はその勢いのまま晶の元までやってくると大きな瞳を更に大きくして晶の全身を見た。 「...あっ...あの? 」 「ほらほら、晶さんは疲れているのよ。座らせてやりなさい」 その言葉にじっと杖がある左足をじっと見つめると女の子はにこりと笑い「それもそうね! 」と卓子前の椅子を引いた。 「さあ、座って」 女の子の言葉に晶は佐伯夫人へと視線を向けると大きく頷いてくれたので「お言葉に甘えて、失礼します」と一礼して椅子へと近づいた。
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