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「こんにちは」
僕は意図してにこやかな表情を心掛ける。
表情筋に力を入れて唇の端を吊り上げ、笑顔を保つ。
「あの……ここは……」
初対面の男性は辺りをきょろきょろと見渡して訝しげな表情だ。
開始三秒でお引き取り願いたくなったが、これも仕事だ。
僕は呪文を唱える。
これは仕事、これは仕事、これは仕事……
しかし、最近の僕は魔法のかかりが悪い。
「そこの椅子に腰掛けて、生前のことを思い出してください」
僕は機械的に言う。
あぁ、もっと優しく言えたら良いのにともどかしく思う。
「鈴木智之、四十三歳。生まれは千葉県の……」
まただ。
どうして、こうも自分の略歴を話そうとするんだろうと僕は退屈しながら思う。
死者の話を遮って誘導してはいけないため、僕は黙って話を聞き続ける。
いつまでも。
いや、正確には僕が聞きたいエピソードが語られるまで。
「勤めていた谷原商事の営業部ではトップを争っていました。谷原商事は、そろそろ一部上場……」
はぁ。
僕が聞きたくもない話が延々と続く。
この、なんとも無意味な人生の切り取り方をする人が増えたのは、ビデオカメラなどの普及で動画を録る、ということが浸透し始めてからだ。
カメラのときも同じような変化があったが、当時のカメラは非常に静的で、物語性には欠けていたため、写真の中身を語るようなケースは少なかった。
僕に求められているのは、その死者の生前の人となりが分かるような伝記であって、功績などどうでも良いのだ。
運動会の徒競走で親がビデオカメラを構える。
僕はその前後の思いでの方がよほど欲しい。
運動会の前日は早く寝たのか、友達と楽しみに練習をしたのか、ゴールテープを切った後、誰にどんな声をかけるのか。
僕はそういう話を聞きたい。
「5年前に離婚しました。それから独身です……」
やっと核心に迫り始めた。
身の上話をするときの切り口というのは、人柄が良く出る。
彼の話は端的に言って平凡だった。
ありふれた人生でひどくつまらない、僕にとっては。
しかし、彼にとっては波瀾万丈な人生だったのだろうと思う。
僕の目から見た彼は、地獄のようなものに行かねばならない悪人には見えなかったが、さてどうだろうか。
「ありがとうございました。まっすぐお進みください」
僕はそう促す。
彼の今後を判断するのは、僕ではない。
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