第1話「兎は月で溜め息をつく」

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第1話「兎は月で溜め息をつく」

 夕方まで寝てしまって、まだ覚めやらぬ微睡(まどろ)みの窓辺から空を覗くと、水彩のクジラが白い春の雲の波間を泳いでいくところだった。  別に示し合わせたように一緒に登校しているわけではない。  遅刻ギリギリの時間で家を出た結果に過ぎなかった。  高校二年生になってまで、義理の兄妹とはいえ一緒に登校するのはどうかと思いはするのだが、兎月(とげつ)現子(うつつこ)もその辺はいい加減で曖昧なものだから、意識して時間をズラしたりはしないのだ。  いちいちそんなことにまで気を回していたら、きっと目が回ってマトモに歩くことさえ(まま)ならなくなる。  春の向こう側から夏の足音を聞きながら、二人は通学路を急ぐ。  会話は無い。  他愛無い話題は家の中で済んでしまうものだし、現子はイヤフォンで音楽を聴いていた。  周囲からは兎月の後を現子がついて歩いているだけに見える。  男女が一緒に登校というふうにはとても見えないので、特に注目を浴びることも無いのだった。  校門を(くぐ)って校舎へ入ると、エントランスは遅刻ギリギリ組で(あわただ)しい。  兎月も急いで靴箱を開けると、中には一通の手紙が入っていた。 「古風ね」  イヤフォンを外しながら、現子が後ろから覗いて言った。 「悪戯の可能性が高い……」  兎月と現子が目配せした後、チャイムが校舎内に鳴り響いて二人は全力でそれぞれの教室へと走り出すのだった。  * * * * * * * * * * * * *  授業中、兎月は靴箱に入っていた手紙について心を動かされたりはしなかった。  実はこの手の手紙を貰ったことは何度かあって、悪戯が二回、相手が男子だったことが三回と(ろく)な目にあっていない。  過度な期待は後の失望を大きくする。  客観的に見て、実は兎月は学園の男子生徒の中でも目立つ存在であった。  学生の本分は人並み以上の成績を残す兎月ではあるが、優秀と呼ぶほどではない。  彼が目立つ理由は特異な外見にあった。  男子のようでもあり、女子のようでもある。  あるいは、そのどちらでもない。  まるで性別から見放されたような中性的な容姿は時に人を戸惑わせ、また魅了する。それは兎月のコンプレックスではあるが、他者の興味を惹き寄せる個性でもあった。  休み時間、現子に手紙の内容を見せてみる。  現子は「いいの?」と兎月に確認した後で、殺風景な便箋に視線を落とした。 『お話したいことがあります。放課後、屋上へ来てください』 「文面はこれだけ?」  差出人の名前すら無い。 「行くの?」 「行かない」 「即答ね」  兎月は手紙を無視することにした。  手紙は次の日も入っていた。 『とても大切なお話があります。今日の放課後、屋上で待っています』 「大切なお話って書いてあるけど……」 「行かない」  兎月はあたりまえのように、屋上へ行くことはなかった。  その次の日も。 『どうして来てくれないのですか。今日も下校時間まで屋上で待っています』 「行ってあげたら? さすがに可哀想になってきたわ」 「可哀想なのは、どちらかといえば僕でしょ?」  非常識な手紙を毎日貰っているからということだろうか。  結局、今回も兎月は待ち合わせ場所へは向かわず。  やはり翌日にも手紙は兎月の靴箱の中に入っていた。 『話くらい聞いてくれてもいいじゃないですか。気を使って人気の無い場所を選んでいるのに』 「もしかして、悪戯ではないんじゃない?」 「現子の言うとおりかもしれないけど、悪戯である可能性もある」  文面が心なしか乱暴になってきているのが何となく不気味で、兎月は放課後速やかに帰宅した。  手紙は当然のように、翌日にも入っていた。 『今日来てくれなければ、あなたの名前を叫びながら屋上から飛び降ります』 「……これヤバイんじゃない?」  現子が責めるような声音(こわね)で問う。 「飛び降りるのは勝手だけど、僕の名前は叫ばないで欲しいな……」 「兎月が手紙を無視する度に、事態がどんどん悪い方向へ向かっている気がするけど」 「僕のせいだっていうのかい? こんなアブナイ手紙を書く人になんて会いたくないね」 「こんなことになったのも、兎月のいい加減な性格のせいだからね。今日は絶対に行くこと。いいわね」  現子が強い口調で念を押す。 「嫌だね! いきなり自殺を(ほの)めかすとか、この手紙の差出人は絶対に思考がオカシイよ!」 「兎月が四回も無視するからでしょ」 「だって悪戯だと思ったしなぁ」  拗ねたように薄い唇を尖らせる。 「万が一、悪戯じゃなかったら……」 「いくらなんでも飛び降りは狂言だろ」 「ならいいけどさ。本当に飛び降りちゃったらどうする? 少なくとも私と兎月は、この学園にはいられなくなるでしょうね」 「大袈裟だな。現子は」  笑う兎月の顔は、実は引きつっていた。 「最悪私たち、この町を出て行くことになるかも」 「そんなバカな話は聞いたことがない!」 「近所の目って怖いからね……」  一瞬の沈黙の後、「……行く」と兎月は力なく答えた。 「それがいいわ」 「だから……」 「だから?」 「一緒に来てくれ」 「なんで私が」 「だって怖いだろ……」  現子は溜め息をついた。こういうヘタレたところは昔と何も変わっていない。  * * * * * * * * * * * * *  放課後。兎月は足取りも重く、屋上への階段を上る。彼にとっては地獄への階段にも等しかった。 「もっと速く歩きなさいよ。飛び降りちゃったらどうするの」  後ろから現子がせっつく(・・・・)。 「もうね。この際、飛び降りちゃってもいいかな。みたいな……」 「兎月が言う冗談って、本気に聞こえるからヤメテ!」  屋上の直前まで来ておいて何を言っているのかと、ビビッている兎月に活を入れる。  本来は立ち入り禁止である屋上への扉を開けると、そこには誰も居ないように見えた。 「なんだ。やっぱり悪戯だったん――」  突然、見晴らしの良い景色に暗幕が下りた。何も見えない。(まぶた)に触れる指の温もりを感じて、兎月は後ろから誰かに目隠しされているのだと気づく。 「だーれだ?」  現子の声ではなかった。もっと可憐で鈴の音のように涼しげな響きだ。  顔に掛かる手を取ってゆっくり振り向くと、見覚えの無い顔が薄い笑みを浮かべて立っていた。  夜を溶かし込んだような長い髪がとても印象的な、人形のように整った容貌の美しい少女。 「……誰?」 「これでもう大丈夫……」  少女の声も、やはり容貌に相応しいものだった。  兎月は戸惑う。彼女の言っていることを含めて、状況のすべてが分からない。  現子が美少女から兎月の体を引き離す。 「あなた、噂とずいぶん違うみたいね」  怪訝(けげん)な視線を少女に送りつける。  現子は何かを知っているようだった。 「私は兎月だけを呼び出したはずだけど……」  会話になっていない。否、会話そのものを成立させるつもりがないのかもしれない。それでも間違いなく、彼女が手紙の差出人だった。 「ねぇ、兎月。どうして一人で来てくれなかったの?」  少女の声には不満そうな影が差していた。 「手紙の内容が怖かったから」  一呼吸半の間が空く。 「嫌ね。私、怖くなんてないわ」   少女の含んだ笑いを伴う仕草はぎこちなく、柔らかい髪を揺らす。どこか無理をして表情を作っているような違和感。 「だって、私は兎月を助けに来たんだから」 「兎月、帰ろう!」  現子が兎月の手を取った。これ以上話を続けても意味が無い。そう判断したのだ。  兎月も現子の後ろに続く。そもそも、会話事態が噛み合っていないのだから。  振り返ると少女が薄い笑みを浮かべて手を振っていた。その漆黒の瞳は何も映していない。どこか現実を拒んでいるように沈んでいる。  兎月は不安を感じながら屋上を後にした。
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