第10話「かさなるさかな」

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第10話「かさなるさかな」

 夕食にビーフシチューを作ろうと思った。  牛肉と野菜をデミグラスソースで煮込むときに、鍋の中に血を入れた。  ナイフが指に触れたときよりも、心のほうが痛かった。  乾燥機の中で洗濯物が回っている。  中で兎月(とげつ)現子(うつつこ)の衣類がグルグル回って、絡み付いては離れてまた絡む。  兎月の好きな人というのは、もしかしたら自分なのではないかと現子は思っていた。  それは何の根拠も無い願望だけれど、だったら良いなと思うのは罪ではない。  兎月が和華(わか)のことを好きなら、それはそれでいいと思う。  和華はいい娘だし、兎月の恋愛は自由だ。 「それに、どうせ兎月の片想いなんだろうし……」  そうに決まっている。自分以外の誰が兎月を好きになるというのか。  夜須女(やすめ) (しおり)にしたって、何かの気の迷いで一時的に兎月に執着しているに過ぎないはずで、例えるならばそれは嵐のようなものだろう。  過ぎ去ってしまえば他愛(たあい)ない話のネタになるだけだ。  乾いた洗濯物を畳みながら、現子はまたどうしようもなく、どうしようもない願望に(すが)り付いて息を繰り返すのだった。  兎月が帰ってきたら本心を聞いてみよう。  夜須女 静の戯れ言という可能性だって充分にある。  もしも兎月が和華を本当に好きというなら、妹として兎月の恋を応援すればいい。  いずれ終わる恋を、静かに見守ってやればいい。  そして兎月は(ようや)く気づくだろう。  本当に必要な人は誰なのか。  現子は着ているものを下着以外すべて脱いで洗濯機に放り込んだ。  それから兎月の洗い立ての長袖Tシャツに袖を通す。  『兎』と筆文字で書いてあるシャツは、暖かくてフワッとして乾燥していた。  兎月の体つきが細いといっても、現子の小柄な身体には袖丈も身幅もブカブカで着丈も余る。  そうやって、少しずつ現子は兎月と重なってゆくのだ。そういうふうな重なり方しか知らない。  兎月は今日、図書館に寄るから帰宅は遅くなると言っていた。  雨でなくとも兎月が図書館になんて行くはずがないのだけれど、そこは()えて詮索するのをやめた。  現子は兎月のTシャツを着たまま、兎月の部屋に入ってドアを閉めた。 「兎月が誰を好きでもかまわない」  そのままベッドに横になる。 「本当に一番近くで貴方(あなた)を想っているのは誰なのか。本気で愛しているのは誰なのか……いつか気づく日がくるのさ」  現子はベッドの上で小さな身体をくねらせて、全身で兎月の影を静かに抱擁(ほうよう)する。  兎月の残像と同化するように。自身をベッドの中に溶かしてしまうように。  ――今夜も私が横になったベッドで、何も知らずに眠るといい。私の夢を見るといい。  図書館に居るという兎月にメールを送った。すぐ家に帰ってくるように。  いつにも増して胸の鼓動が早くなる。音も大きい気がする。 「心臓って、(うるさ)いんだ……」  まるで現子の身体そのものが心臓に支配されてしまっているかのような、鼓動のタカマリのカタマリ。  全身の脈動を沈めたくて、兎月の枕を薄い胸に押し付ける。  兎月が帰宅して今の光景を目にしたら、どんな顔をして、どういう声で、何て言葉を口にするだろうか。  責めるだろうか?  許すだろうか?  軽蔑するだろうか?  それとも、責めて許してから軽蔑するだろうか?  そして、傷つくだろうか…………。 「私のこと、嫌いになるかな…………。何処から見ても変態だもん。嫌いになるよね」  現子は兎月にバレるまで、この不毛な行為を続けるだろう。  何もかもが泡沫(うたかた)のように消えてしまう瞬間の終わりまで。  その時、現子の義妹と言う絶対的な確実性として存在するネームプレートは、どうなってしまうのだろうか?  ただの肩書きだけの、深みも中身も重みも無いガラクタ同然になってしまうのだろうか?  ただそれだけのことが、こんなにも怖くて待ち遠しい。  性別なんてものがあるから人は狂ってしまうのだ。  だったら、この世界で唯一性別から逃れることが出来た兎月だけが正気なのかもしれない。 「ただいま」  兎月が玄関を開けた瞬間、食欲を刺激する匂いが鼻腔を(くすぐ)ってきて、自分はお腹が空いているのだと気づかされた。  ダイニングキッチンでは現子が二人分のビーフシチューを皿に盛りつけてテーブルに並べている。 「おかえり。もう、遅いぞ。今夜はビーフシチューなんだから」  現子がエプロンを外しながら、いつもより遅い帰宅の兎月に少し拗ねてみせる。 「凄いね。でも、現子ビーフシチューなんて作れたっけ?」 「ちょっと今回は張り切ってみましたよ」  不敵な笑みを浮かべる。 「ちょうど、お腹空いてたんだ」 「それじゃ、冷めないうちに食べようか」  両手を合わせて、二人で「いただきます」を言う。  牛肉が口の中で崩れてとろける。野菜も柔らかい。デミグラスソースも、なかなかどうして侮れない味付けだ。  現子の料理の腕前は、ちょっとしたものなのである。 「美味い!」 「本当? 良かった」  雨が降ったせいだろうか。初夏にしては肌寒い今夜に丁度良い献立かもしれない。 「こんな美味いビーフシチューは食べたことがない」 「兎月、大袈裟。っていうか、そこまで言うと嘘くさい」  ――何も知らずに私の血を体内にいれるといいよ。 「あれ? 現子、その指……」  現子の指には絆創膏が貼られていた。  ビーフシチューに夢中で、兎月は今頃になって気がついたのだ。  全ての指にビッシリと規則正しく貼られた絆創膏は、ちょっとしたオシャレのようにも見える。 「料理してて指切っちゃった」  自分の失敗を自慢するかのように、嬉しそうに両手を広げてみせる。 「ふーん。珍しいね……」  現子が料理中に指を切るなんて、兎月の記憶には無かった。  十本の指、すべて同じところに絆創膏が貼ってあるのは妙だと思ったが、小さな指の痛々しさに些細(ささい)な気掛かりはすぐに何処かへ飛んでいってしまう。 「このビーフシチューは、現子の血と汗と涙の味がするというわけか」 「上手いこと言うわね。シチューだけに?」  血が繋がっている兄妹のように二人は微笑みあった。  それは書類上だからこその仲の良さなのかもしれないし、こういったやり取りに何処(どこ)かワザとらしさが残るのも、元は他人だからかもしれなかった。  会話が途切れると、現子は兎月がシチューを口に運ぶ(たび)に目を細めて少しだけ()む。 「現子……」 「何?」 「見られていると食べづらい」 「あ、ごめんね……」  現子がフランスパンをスライスしてテーブルに乗せる。 「シチューだけじゃ、アレだから。炭水化物……」  意味ありげにフランスパンが登場した。  ここ最近で、二人の間にはフランスパンといえば、すっかり静さんのイメージが定着してしまっている。 「図書館はどうだった?」 「どうって、別に何も……」  図書館なんか行っていない。 「ふーん…………」 「何?」 「べっつにー」  放課後、兎月が静さんのところへ内緒で寄ったことが現子にバレているとは考え(にく)い。  これはカマをかけるためのフランスパンなのだろう。  どうやら、図書館に行っていないことだけは見抜かれているようだ。  だったら、何処へ行っていたの? もしかして夜須女 静と一緒だったのなら正直に吐け! ということだろう。  もちろん兎月は白状なんてする気はない。  正直に言ったら言ったで、現子は怒るに決まっているからだ。 「そういえば……兎月って、好きな人いる……んだよね?」 「うん」  現子の態度が急にしおらしくなる。  顔を兎月から逸らして、恥ずかしそうに言葉を選んだりしている。  現子からしてみれば聞きづらいことなのだろう。 「誰……なのかな?」 「知りたい?」 「ま、まぁね。家族として知っておきたいというか。そういう大事なことは、やっぱりさ……」 「現子の好きな人も教えてくれれば、教えてもいいよ」 「私は好きな人とか別にいないし。普通いないでしょ。普通は……」  現子が深皿の中のビーフシチューをスプーンでグルグルと(せわ)しなく回し始める。  彼女がこういう無意味な動作をするときは、何かを誤魔化しているときなのだ。 「嘘が下手だね。ちゃんといるでしょ。現子は好きな人」  兎月の鳶色(とびいろ)の瞳が、眼鏡の向こう側の現子の瞳を覗いている。 「なんでそんなこと、兎月に分かる……」 「普段の様子を見ていればね。でも、言いたくなければ言わなくてもいい」  現子は何故か兎月に心を見透かされているような気がして、兎月の顔が見れない。  目を合わせてしまったら、自身の秘め事の全てが兎月にバレてしまうのではないか。そんな気がした。 「僕はね、両想いって信じていないんだ」 「そうなの?」話題が変わって安心する。 「それどころか、あってはならないとさえ思ってる」 「両想いって素敵なことだと思うけど……」 「僕は怖いと思う」  正直、兎月は両想いなんてものは気持ち悪いとまで思っていた。 「だから僕の好きな人は、僕のことを何とも思っていなければいいなと思う」 「それって、何だか悲しい考え方だね」 「そうかな?」 「そうだよ」 「僕が人を、誰かを、他人を、異性を好きになるっていうのはね。つまりは、僕が相手に対して勝手に好意を持つということだよ」 「それはそうなんだろうけど。好意を持たれて嫌な思いをする人っていないでしょ?」  兎月の勝手(・・)という表現が現子は気になった。 「そうとは限らない。時と場合と、事と相手によるかもしれない」  兎月はフランスパンを二つに裂いて、片方をシチューのソースに浸した。 「その好意って、僕自身が勝手に相手を理想化した偶像に対して向けているものなんだよね。本人じゃないんだ。それって何だか怖くない?」 「でも人の内面なんて、付き合ってみなければ分かりっこないんだし」 「付き合うってことはさ、自分の中の理想を打ち砕く、あるいは打ち砕かれる行為なんだよ」 「でもそれはお互い様だと思うし、相手の知らない部分を知っていくのが恋愛ってものだし。その結果上手くいったり、いかなかったりでしょ?」  それでは精神(こころ)の中の理想や偶像は何処へ行ってしまうのだろう。  理想や偶像にだって存在する理由と価値はあるのに、きっと二度と会えないほど、夢の中よりも遠くへ消えてしまって、二度と思い出せなくなってしまう。  人の思い出にすら残ることが出来ないなんて、そんな空虚な存在って無い。 「……………………」 「急に黙らないでよ」 「現子ってさぁ……変わってるよね」 「兎月にだけは言われたくないんだけど……」  このあと二人一緒に「ごちそうさま」を言って手を合わせた。  オレンジ色の灯りの中で食べるご飯って、とても大事。
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