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第11話「砂丘でゴミ拾い」
兎月の中の和華は息をしていない。それでも恥らうように、日陰のような笑顔を作る。
兎月の中の和華は体温が無い。温かいのか冷たいのかも分からない。それでも生きて、存在している。
兎月の中の和華は昏睡状態のように話すのを嫌う。それでも話しかけたいことは、たくさんあるんだ。
こんな想いを果たして恋と呼べるかなんて知らない。知りたくも無い。
恋など所詮、歪なものなのだから。
誰も居なくなった放課後の教室は、部活も帰宅も、何も一切構わない此処にいるだけの存在を祝福する。
兎月と静さん以外の者を、教室が入室を拒否しているかのようだ。
それはまるで、金魚鉢の中のような狭い空間の異世界。
「兎月、気づいている?」
「何?」
静さんが囁く。兎月以外には誰にも聞かせたくない話をするような妖しい声で。
「この間から私のことを名前で呼んでいること……」
「だって、夜須女さんよりも、静さんのほうが呼びやすいでしょ」
「まぁ、そんなことだろうと思っていたけどね……」
小さな息と一緒に静さんから感情らしきものが出て行く。
兎月が本当にそんな理由で呼び方を変えたことに、静さん自身も気づいてはいたのだ。
それでも二人の関係は一歩前進したのかもしれない。
正直、「夜須女さん」と呼ばれるたびに、静さんは居心地の悪さを感じていたから、「呼びやすい」が理由でも名前のほうがずっと良い。
扉が開いてカーテンが風に泳ぐ。教室へ侵入者が入ってくる。
「兎月くん……」
異世界への入室を許された、もう一人の生徒。
舞泉 和華。
地味で存在感の薄い眼鏡少女は、学園きっての美少女である静さんから嫉妬されている唯一の生徒という意味では、やはり異質な存在である。
「燈麻なら部活へ行ったよ」
「今日は兎月くんに話があってさ」
「君が僕に用なんて珍しいね」
兎月が知る限り、初めてのことだ。
静さんから表情が消えて冷たい視線が和華を鋭く射抜く。
「頼みたいことがあるんだけど……」
和華は控えめな仕草で、控えめな視線を兎月に向けて、控えめな口調で話し始めた。
彼女の何もかもが、控えめな自己欺瞞に満ちている。
「今度の日曜日、空いてるかな?」
「空いてないわね!」
静さんが間髪入れずに切り返す。彼女にしては珍しく、感情があからさまな嫌悪に逆立っているのが分かる。
「悪いけれど、今度の日曜日は私と一緒に映画に行くことになっているの」
「静さんと映画に行くなんて話、初めて聞いたよ」
兎月が抑揚の無い声で呆れた。
「邪魔さえ入らなければ、すぐに話すつもりだったの」
何気に和華を邪魔者扱いしてみせる。
静さんの口調がイライラとしている原因はもちろん和華なのだが、兎月は静さんと和華の険悪な関係を知らない。
「清掃ボランティアなんだけど」
静さんを無視して和華は話を進める。
清掃ボランティアというのは、比良坂学園の通学路のゴミ拾いをするという清掃行事である。
生徒会、保健委員会、美化委員会、各クラスの委員長は強制参加で、一般生徒も希望すれば参加できる。
「どうして兎月がせっかくの休日にゴミ拾いなんかしなくちゃならないわけ? 兎月は私と一緒に映画に行くのよ!」
静さんがポケットから映画のチケットを二枚取り出して見せる。
「砂丘?」
それが映画のタイトルらしい。
「どんな映画?」
兎月は元々、映画を観るのは好きなほうなのだ。
「前世紀のアメリカ映画なんだけど、とにかくストーリーらしきものが皆目見当たらない難解な作品らしいわよ」
静さんがドヤ顔で説明を始める。彼女は彼女なりに、兎月に興味を持ってほしいのだ。
「テーマは『愛の不毛』。私たちにピッタリかもね」
声音から静さんの微熱を帯びた高揚が伝わってくる。
チケットには「奇跡のリバイバル上映」などと書かれているから、かなりマイナーな映画のようだ。
「清掃ボランティアって、学校に集合でいいの?」
「参加してくれるの?」
静さんの説明も虚しく、話題は映画から清掃へと移っていた。
「ちょっと待ってよ。兎月はゴミ拾いのほうがいいっていうの? 私と一緒に良く分からない難解な映画を見るよりも?」
不本意だと言いたげに抗議する。
「だって、ストーリー無いんでしょ?」
「ストーリーはサイケデリック? 音楽がピンク・フロイドとか、グレイトフル・デッドとか。それだけでも観る価値あると思うの」
熱く語られても、兎月には何のことだか分からない。
「夜須女さん、邪魔しないでくれます?」
今度は和華が静さんを邪魔者扱いする。
和華は不敵な笑みを浮かべながら静さんのほうを見た。
邪魔できるものならやってみるといい。兎月がどちらを選ぶのか、その憂いに揺れる瞳に焼き付けるといい。
彼女の表情からは、そんな内心が透けて見える。
当然、静さんは面白くない。棘を秘めた漆黒の瞳が険を孕む。
しかし、和華は知らん振りだ。余裕すら感じ取れる態度で言葉を紡ぐ。
「良かったら夜須女さんも参加します?」
「誰がゴミ拾いになんか……」
「そうですか。兎月くんは参加するってことでいい?」
「当日になっても参加する気があったらってことで良いなら」
「それでもいいよ。でも集合時間までには来てね」
和華は余裕しゃくしゃくといった感じで、兎月に手を振りながら教室から出て行った。
「兎月、あの和華って娘には気をつけたほうがいいわよ」
「どうして?」
「兎月が思っているような娘じゃないわ」
それは兎月には承知のことだ。自分の中の和華と和華本人は別人である。
そして兎月は自身の中の和華にしか興味が無い。
「静さん、機嫌悪いね」
「そんなことないけれど」
「和華とは一年のとき同じクラスだったんだよ」
「兎月の好きな人……」
「そうかもね。でも……」
――君が僕のことを好きになってくれて、初めて僕は君のことを好きになる資格を得る。
兎月は言葉を飲み込んで帰り支度を始めた。
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