第15話「テネシーワルツ」

1/1
26人が本棚に入れています
本棚に追加
/58ページ

第15話「テネシーワルツ」

 目が覚めるともう昼近くで、遅刻どころの話ではなかった。  顔を洗う途中でやっと外は雨が降っているのだと気づいて、その薄暗さに少しだけ安心する。  最早(もはや)、学校に行くつもりは全然無いから、珈琲を淹れてダイニングテーブルの椅子を引く。  何の意味もなく雨が降るのと同じで、自分の中に横たわって動かない憂鬱というものも、きっと何の意味も無い。  そんな他愛も無いことをつらつらと思いながら、(しおり)さんの頭の中で兎月(とげつ)の顔が浮かんでは消えた。  性別を特定できない、まるで水のような存在感。  いつかのように、彼はお見舞いに来てくれるだろうか。 「隣の席の兎月はズル休みした美少女の様子を見てくるように……なーんて」  自ら口に乗せた言葉に(しら)ける。  そんな都合の良い話があるわけがない。  今日、兎月は来ない。そんな気がした。  先日観た映画はやはり意味が分からなかったが、意味の無いことに意味を見つけるのも兎月と一緒なら悪くなかった。  レコード棚から『砂丘』のサントラを見つけて掛けると、テネシーワルツの存在意義の無意味さが急に愛おしくなって何度も針を戻す。  映画でもレコードでも、テネシーワルツは浮いている。悪い意味で目立つイレギュラーだ。  曲の並びの中で違和感を感じる要らないもの。  テネシーワルツは恋の歌。そして失恋の歌だ。  ボーダーのロンTにワイドシルエットのクロップドパンツ。素足にローファーを穿いて、静さんは午後の空に向けて傘の花を広げた。  濡れた横断歩道を渡り、水溜りを避けながら、誰にも触られたくないし、触れたくないというような足取りで、兎月という砂丘を目指す。  兎月の中に舞泉(まいいずみ) 和華(わか)はいない。結局、兎月の中には誰もいなかった。  兎月と僅かながら一緒の時間を過ごしてみて、それが良く分かった。彼の中は空っぽだ。  静さんが傘の中で薄く笑う。  兎月はそうでなければならない。自分以外の誰とも一緒にいなくていいし、いる必要もない。  そして『野々宮(ののみや)』と書かれた表札の下にある呼び鈴に触れた。  返事は無い。  まだ学校の授業が終わる時間ではないのだ。静さんは雨に立ち尽くす。  低く垂れ込める雲の灰色を眺めながら、以前にも似たようなことがあったと記憶が訴える。  モノクロームの世界で雲の影の中、兎を待つ自分。  確か何処かでこんな情景に身を置いた覚えがある。  十分経っても兎月が帰ってこないので、静さんは飽きて帰ることにした。 「君は神出鬼没なんだね」  耳元で兎月の声。 「こんにちは。静さん」 「どうして……」 「ちょっと体調を崩しそうだったので早退したんだけど」 「大丈夫なの?」 「静さんに会ったら収まった」  妙に機嫌の良い兎月。 「兎月って時々大胆なこと言うわね」 「何が?」 「何でもない……」  雨の中で立ち話しもなんだし、兎月は静さんを家の中へと誘った。  少しヒンヤリとした空気と家屋が持つ特有の匂いが静さんの嗅覚を付く。 「静さんはアールグレイ大丈夫?」  居間のソファーに座った静さんが小さく頷く。  クセのある味だけに、苦手な人も多い紅茶だ。  掃除が行き届いた部屋に現子(うつつこ)の面影を感じて静さんは灯りを消した。 「こうするとね。雨のシルエットが見えるのよ」  驚く兎月に一言添える。  部屋の灯りが消えると、紅茶の香りが存在感を増したような気がした。  逆に二人の存在感は薄影の中に溶けて僅かに消える。  雨空でも充分に明るい時間だ。 「前に静さんは、僕のことを助けるとか言っていたよね」  兎月はしなやかな動作で、淹れた紅茶を運びながら静さんに話しかける。 「それは何から?」 「兎月を取り巻くあらゆるものから」 「静さんって、いろいろな意味で個性的だよね」  冗談めいた口調で流す。これでも兎月は静さんとの会話を楽しんでいるのだ。 「兎月って誰も好きになったことがないでしょう?」 「そうだね」  和華への気持ちは自己愛の変形であって、他者に対する愛情とは正反対の感情だ。  ――「兎月に好きな人なんて、いるはずがない」  いつか静さんが屋上で口にした言葉は、見事に兎月の本質を突いていたのだ。  兎月に好きな人なんて、初めからいなかったのだから。 「でも、それは静さんだって似たようなものでしょ?」 「そうね。私と兎月は似ているわ。だからこそ、私たちは一緒にいるべきだと思わない?」 「よく分からない理屈だなぁ」 「私の願いと兎月の嘘を合わせれば、きっとお互いが知りたいものを見つけられると思うの」 「……静さんは僕のことをどこまで知ってる?」 「多分、兎月の家族の誰よりも私は貴方(あなた)を理解している」 「それでも僕と一緒に居たいの?」 「世の中には私のような人間もいるのよ」  紅茶の香りと雨の音が沈黙に溶けていく。 「静さんって、変わってるね」 「そうかもね」  二人、誓いのキスをする。それは秘密のキスでもあった。 「僕の探し物が見つかるように。そして静さんの願いが叶うよう祈って」  ()して深い意味の無いキス。薄っぺらい言葉。  テネシーワルツは恋の歌。そして、失恋の歌だ。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!