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第16話「120wの温もり」
野々宮家の朝食は基本パン食である。
兎月はトーストにバターを塗るが、現子はマーマレードだ。
それとハムエッグにサラダとバナナ。
玉子は日によって茹でることもあるが、炒めることもある。
サラダのほうは季節によって、色と形を変える。
バナナは年中無休だ。
「そういえば昨日夜須女が来ていたけど、高いほうの紅茶出したでしょう」
マグカップから紅茶の湯気立つ香りが、現子の些細な記憶の断片を呼び覚ます。
昨日、兎月が静さんに出したお茶は、現子が個人的に楽しむために買った銘柄だったのだ。
「次からはコッチの、安いほうので充分だから」
朝食に飲むティーバッグで淹れた紅茶を指す。
適当に返事をしながら、兎月はハムエッグに塩と胡椒を振っている。
時間に追われながらも、朝食の一時は現子の一日の中でも大事な時間だ。
食べ物の匂いや食事の際の音、会話、空気に至るまで温もりがある。
それはきっと、二人で食卓を囲んでいるからだ。
一人だったら、ここまで時に色は付かなかっただろう。
突然、玄関の呼び鈴が鳴った。
掛け替えの無い束の間に、無遠慮な一旦停止が挟み込まれる。
「誰かしら。こんな朝から……」
パタパタとダイニングを出た現子が玄関を開けると、そこには前髪をパッツン切り揃えた、髪の長いセーラー服美少女が立っていた。
六月の湿り気を帯びた空気の中でさえ、その佇まいは涼しげで清楚だ。
「おはよう。妹さん」
「何しに来たの」
妙に機嫌の良い夜須女 静を警戒しながら、現子は怪訝そうに目的を尋ねた。
「とりあえず、中へ入れてくれない?」
「朝から中出しを要求するような破廉恥は、家の敷居を跨げません……」
「まぁ、妹さんってば、お下品。後ろにいる兎月に聞こえているわよ」
後ろを指差す静さんの仕草に現子が慌てて振り返ると、その隙を突かれて家の中へと上がりこまれてしまった。
「騙したわね!」
チョロイとでも言いたげな小馬鹿にした笑みを現子に送りつけてから、静さんは我が物顔でダイニングへと向かう。
「おはよう。兎月」
食事中の兎月に挨拶をしてから隣の席に座る。
「私たち、まだ食事中なんだけど。常識くらい弁えて欲しいわね」
自傷? 否、自称常識人の現子が目玉焼きにケチャップで目玉の絵を描く。
「静さんも何か食べる?」
兎月が欠伸をしながら嫌いなアスパラガスを勧める。
「ありがとう。でも私、朝はコーヒーだけなの」
笑顔で遠慮する。
「夜須女、そんなだと近いうちに死ぬわよ」
「それ知ってる。美人薄命ってやつよね」
朝の食卓が急に賑やかになった。
「不味い? マズイなら無理に食べなくてもいいのよ?」
静さんが愉快そうに兎月の隣で現子の料理の味を否定する。
毎回これをしないと気がすまないのだろうか。
「失礼ね。兎月は私の作ったものは、何だって残さずに食べてくれるんだから」
ちょっと自慢気な物言いである。
「ふーん。兎月って優しいのね」
「私にだけね」
現子が珍しく静さんに皮肉をぶつけた。その後で顔を真っ赤にして後悔する。
らしくない科白だったかもしれない。
二人のやり取りも上の空で、兎月は黙々と朝食を食べている。
機械的な動作と口調。
まだ眠気が払われずに、精神の一部が夢の世界を彷徨っている。
「で、朝から何しに来たわけ? 昨日、忘れ物でもした?」
「そうなの。忘れ物しちゃって」
不意に静さんの柔らかな唇が兎月の頬に触れた。
瑞々しい唇の感触が時差を置いて脳内へ辿り着くと、兎月の霧のような微睡みは一気に晴れ渡ってしまった。
顔を真っ赤にしながら、静さんと目を合わせる。
「目、覚めた?」
慌てて何度も頷く兎月を楽しそうに眺める。
「な、何を……一体、何が……何しているのよ!」
目の前で起きた青天の霹靂に、現子の舌が上手く回らない。軽いパニック状態だ。
「だから、キスの忘れもの」
恥ずかしそうに静さんは指を自らの唇に寄せた。
「兎月、早く頬を拭かないと美少女菌がうつる」
慌ててウェットテッシュを兎月の処へ持っていく。
「失礼ね。ところで美少女菌って何?」
「この変態! 淫乱! 痴女! 色情狂!」
「妹さんは、そういう言葉をいろいろ知っているのね」
「うるさい!」
「何も泣くことないでしょう。ホッペにチュウくらいで」
「泣いてない!」
もう食事どころではなくなってしまった現子が、薄っすらと目に涙を浮かべながら食器を片付け始める。
何はともあれ、時間は待ってはくれない。
手持ちぶたさで待っている静さんを余所に、二人はテキパキと身支度を済ませて三人揃って家を出た。
昨日の雨が止んで、外には梅雨の晴れ空が広がっている。
この時期は晴れたら晴れたで蒸し暑くなる。
一人っ子である静さんは、兎月と現子が同時に家を出て登校する光景を不思議に思った。
兄妹ってこういうものなのだろうか。
「妹さんは兎月と一緒に登校するの?」
「するけど? ずっと一緒に行ってるし」
不愉快極まるといった視線を静さんに向けながら、さらに不愉快そうな声が応える。
「普通は兄妹って一緒に登下校しないものだと思うのだけれど……」
現子は自分が別段変わったことをしているとは思っていない。
兎月とは家族になったときから一緒に登校しているのだ。
日課のようなものに疑問を抱かれてもピンとこない。
この二人が世間一般でいう「兄妹」ではないということに、静さんは改めて気づかされる。
義理の兄妹。その甘美な響きを持つ絆は、静さんの感情をザワザワと揺らす。
静さんが兎月の手を握り繋いだのは無意識のことだった。
それは絆らしい絆を持たない他人ゆえの突発的な行動だったのかもしれない。
「またいきなり何してくれてんのよ。変質者!」
繊細な指同士が絡み合う様を見ながら、現子が声も荒げに静さんの行為を咎める。
一度ならず二度までも。
まるで兎月と付き合っているかのような態度を取る夜須女 静が理解できない。理解したくない。理解しようとも思わない。
「手を繋いでいるだけだけど?」
「どうして手を繋ぐのかと聞いているのよ!」
「私たちのことは構わないでくれて結構よ」
「構うわよ。兎月、そういうのすごく嫌がるんだから」
「そうなの?」
「うん。嫌い」
静さんの手を握り返しながら、兎月が笑顔で行為を否定する。
接触恐怖症というほど大袈裟なものではない。
不意を突く気持ちの急接近に対して、緩やかに悲鳴のようなものを叫ぶもう一人の自分。
そんなものを精神の何処かで認識してしまうのだ。
それは大袈裟な拒絶ではないものの、ある一つの否定だった。
昨日のキスも、薄闇の中でなかったら兎月は逃げ出していたかもしれない。
情けない話で、事のあと兎月は自身の行為に軽い罪悪感を感じていた。
それは静さんの一方的な気持ちを掬っただけのキスだからという理屈だけでなく、本能的な部分が占める割合が大きい。
「静さんのマンションからウチへ寄って学校行くのって、もの凄く遠回りで大変じゃない?」
「そんなことはないけれど……」
細い二人の指が、ゆっくりと一本ずつ解かれていく。
最後の一本が離れていくときに、兎月の指が静さんの指先に切ない温もりを残して去った。
学校が近づくにつれて、疎らだった生徒の数が目立ってくる。
校舎が見えてくると静さんは少し考えるように黙ってから、「先に行くね」と、校門へ駆け出していった。
「あの女、最近妙に馴れ馴れしくなってきたわね」
現子は兎月と静さんが付き合うことになったことを、まだ知らない。
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