第18話「日傘クルクル、パンはゴロゴロ」

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第18話「日傘クルクル、パンはゴロゴロ」

 (しおり)さんのマンションから野々宮(ののみや)家へ行くには、バスに乗って停留所を三つほど過ぎる。  毎日のように通っている学園前で降りて、バス停近くのパン屋で買い物をした。  それから目的地までは歩いて十分くらいの距離だ。  白いノースリーブのワンピースに涼しげな白い日傘を差して、静さんは手提げのバッグを持ち替えた。  梅雨時のどこまでも広く晴れ渡った空を見上げながら、今日は暑くなりそうだと思った。  白いエスパドリーユの靴音が、乾いた歩道に軽やかな音を響かせる。  時折吹いてくる湿った風が、悪戯でもするかのようにキメの(こま)やかな長い髪をサラサラと気持ちよく撫で上げていく。  まだ温もりの残るパンの香ばしい香りが、袋の中から溢れ出して嗅覚を刺激してくる。  こんなちょっとしたことが、嬉しい。 「うふふ……」  兎月(とげつ)と一緒に食べるときを想像すると、静さんは自然と小さな笑みがこぼれてきて、つい表情が緩んでしまうのだった。  住宅街へと向かう途中で大学生らしい二人の男に声を掛けられた。  一人は日焼けサロンで一生懸命肌を焼く姿が安易に想像できるような、褐色の肌をした体格のよい茶髪の男。  もう一人は奇抜な色に染めた髪を後頭部で一つに纏め上げた、痩せ型で背の高い男。趣味の悪いサスペンダーをしている。  二人とも同じようなサングラスをかけて、目元を隠していた。  綺麗だとか、今日は暑いだとか、美味しいカフェを知っているだとか、二人の男はそんなことを口にしているらしかった。  つまりはナンパしているのだ。  一通りの誘い文句が終わると、レコードの針を最初に戻したように同じ内容の然程(さほど)中身の無い薄っぺらな言葉を繰り返すのだった。  ナンパされるとき、静さんは(わずら)わしい態度で断ることをしない。  好意的な言動など、(なお)しない。  徹頭徹尾(てっとうてつび)、無視を貫く。  無関心による拒絶の意思表示。それで大抵は見込み無しと判断して何処かへ行ってしまう。  ナンパするほうも、食いつきの悪い魚に何時(いつ)までも構っているほど暇ではないのだ。  しかし今回は余程静さんのことが気に入ったのか、しつこく腕を掴んできた。 「ねぇ。僕ら、君に声を掛けているんだけど」  兎月以外の男に触れられたのが堪らなく不快で、静さんの細い体が拒否反応から一瞬強張(こわば)る。  凍るような感覚が背中を中心に滑り降りていく。  突然の人災に持っていたパンの袋が白い指から離れて、地面に落ちると虚しい音を立てた。  中から驚いたフィセルが跳び出して、ブールとクーペとタバチェールは不満そうに短く転がった。  静さんは思わず足を止めて、重力と慣性に為す(すべ)を持たないパンたちに同情する。  兎月と一緒に食べるはずだったパンは、道の上でカラスのエサになってしまう運命だったのか。  そう思って、やりきれない虚しさを噛み締める。 「ごめん。驚かすつもりじゃなかったんだけど。同じもの買って返すからさ。ついでに食事でもどう?」  誠意の欠片すら篭っていない声がサスペンダーをした男の口から漏れて、静さんの機嫌を蝕み苛立たせる。  ――同じものなんて、ない。  丁度パンが焼き上がる時間帯に店に入り、兎月と一緒に頬張る時と空間を想像しながら選んだパンに、同じものなどあるはずがないのだ。 「こらー! 女の子に悪さするなんて、最低の男のすることよ!」  それはキツイ叱責(しっせき)のようでいて、諭すような柔らかさも含む。  その言葉は二人と一人の意識の外からやってきて、少しだけ周囲の空気を騒がしくした。  おそらくは通りすがりに口を挟んできたのだろう。女性は見た目二十代か、もしかしたら十代後半のようにも見える。  角の無い丸みを帯びた声と垂れ気味の目元、柔和な顔立ちが言葉の勢いを失速させてしまって、本人が思うほどの迫力には欠けていた。  あまりに突然すぎたそれは、静さんにとって自分ごとだと認識するのに一秒くらいかかったほどだ。 「それに食べ物を粗末にするなんて、超最低!」  男二人は顔を見合わせた。困ったような様子ではない。 「べつに俺たち悪さしていたわけではないですよ」 「そうそう。どっちかというと仲良くなろうとしていた」 「嘘! 最初から全部見ていたんだからね!」  男たちの弁解にも食って掛かる。 「そんな怖い顔しないでよ。それより君も一緒に食事しない?」  それなら男女二人ずつでバランスも良いということなのだろう。 「その()に謝りなさい!」  女性は頑として男たちに侘びを入れさせるつもりのようだ。  静さんは何だかもうどうでもよくなってしまって、その場から歩き離れた。  タメ息をついてパンを諦める。ナンパされたのは不運だったと思うしかない。  すぐ後ろで呼び止める女性の声。  けれども静さんは足を止めることもなければ、振り返ることもないのだった。  まるで何事も無かったように、日傘をクルクルと回しながら歩いていく。  期末試験が終われば、夏休みもすぐだ。そうなれば、兎月ともっと一緒に居られる時間も増えるだろう。  何処かへ遠出するのもいい。  静さんは海も人混みも嫌いだけれど、兎月の行きたいところへ行こう。  空の向こうに漂うまだ見ぬ蜃気楼に思いを馳せる。  そこに先程のお節介な女性が走ってきて、いきなり静さんの腕を取った。 「何しているの! 逃げるわよ!」  そして再び走り出す。腕を引かれながら走る静さんには、何が起こっているのか見当もつかない。  後ろに気を向けると、ナンパしてきた二人の男が倒れているのが見えた。
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