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第2話「ポリエステルより愛を込めて」
教室を見渡せば、確かに彼女は其処に居た。
詰まらなさそうにスマートフォンの画面に指を当てている。
昨日、屋上で会った美少女はクラスメイトだったのだ。
夜須女 静。
彼女の名前を、兎月は現子から教えてもらった。
大人っぽい外見のミステリアスな美少女として、また人嫌いとして校内では有名人であるという。
そんな生徒が同じクラスにいることを今まで知らなかった兎月は、どうかしているとも言われた。
兎月は同じクラスの女子はおろか、男子の名前も碌に覚えていない。
こうなると、もう本人に覚える気が無いとしか思えない。
彼のクラス事についての無関心さは尋常ではなく、昨日のことがなければ今も夜須女 静の存在に気を留めることは無かったかもしれない。
彼女はただ黙々として携帯を弄り続けるばかりで、兎月に話しかけるどころか視線を合わせようともしない。
昨日とはまるで別人のようだ。
兎月には屋上での出来事が、まるで夢の中のように現実感乏しく感じられた。
さながら白昼夢でも見たようなぬるめの感覚が、ぬめぬめと記憶の何処かを這い回っているような知覚の扉の波打ち際に佇む。
しかし一方であれは現実に起こったことなのだと、一歩引いたところから冷静に認識している自分を自覚出来てもいた。
そんなわけで、兎月は登校してからずっと現実と夢の間を行ったり来たりしている。
彼女の外見も非現実感を煽る要因となっていた。
夜を溶かし込んだような、長く静かな黒い髪。
パッツンと切り揃えた前髪の下で、凛々しい線を描く細い眉と、長い睫毛。
妖しく揺れる大きな漆黒の瞳。
通った鼻筋の後に位置する薄い唇。白い肌。
華奢な身体も含めて、彼女の全身が『美少女』であることを周囲に強く主張し、認識されている。
彼女の外見は現実にそぐわない。
整いすぎた容姿は周囲から否定される。だから、見る者に他者を寄せ付けない雰囲気を無意識に押し付ける。
球体間接人形のような儚さを孕んだ無機質な空気は同性には敬遠され、異性からは観賞用と割り切られていた。
そんな孤高の非現実的美少女が昨日の屋上で感情を浮かばせ話し、触れた人物と同一だとはちょっと信じ難い。というか、信じたくない思いが兎月を現実感から引き離すのだ。
「心ここにあらず……という感じだね」
制服を適度に着崩した生徒が、兎月に話しかけてきた。
クセッ毛に、意志の強そうな太い眉。精悍な顔立ちの男子。
村雨 燈麻は、兎月が名前を覚えている数少ない男子生徒である。一年のときから同じクラスで、そのとき以来の仲だ。
「今朝、目的も無くトロッコに乗っている夢を見たんだ。そのせいかもしれない……」
事実、そんな夢を見た。
「そんな余裕をかましているということは、プリントはもう終えたのかな?」
兎月は無言で頷いた。
「では、ここの和訳を教えてくれないか?」
四時間目は英語の授業が自習になって、課題のプリントが出されていた。
燈麻は思索に夢中で、プリントの存在をすっかり忘れてしまっていたのだった。
初めから兎月を頼るつもりだったのかもしれない。
「ここは、『君が僕のことを好きになってくれて、初めて僕は君のことを好きになる』だよ」
「……素晴らしい文言だ」
素晴らしいだろうか。兎月にはよく分からない。
兎月の携帯が震えて、メールの着信を知らせる。
『お昼一緒に食べましょう。屋上で。静』
彼女は兎月に大切な話があるはずだった。確か、二回目に貰った手紙にそう書いてあったはずだ。
何故、兎月のメアドを知っているのかは神のみぞ知る。
静さんの方を見ると、兎月とは視線を合わせず何事も無かったように携帯を弄っている。
どうやら教室で積極的に接触する気は無いようだ。
兎月としても、あからさまに話しかけてくる気配が無いのは有り難かった。
「夜須女 静には学年問わず隠れファンが多いらしいから、下手に関わるとそいつらから目を付けられるわよ」
昨夜の現子の言葉を思い出す。
「隠れファン」であるにも関わらず、実態はそれほど隠れていないような言い方には疑問を感じたが、なんといっても非現実的美少女なのだから、充分ありそうな話ではある。
「んー。コレはどういう意味だ?」
「『君が分かってくれなかったから、僕はとても寂しかった』」
「つまり……どういうことだ?」
「これは彼女側の心情なんだと思うよ? だから『僕』じゃなくても良いと思う」
『僕』としたのは、単に兎月の趣味らしい。
四時間目終了のチャイムが鳴り響く。
* * * * * * * * * * * * *
五月の屋上は梅雨入り前の爽やかな空気に満ちていて、昼食を取るのに申し分ない場所であるといえる。
他に生徒が一人も居ないのは立ち入り禁止だからだ。
静さんの腰まで届く長い髪が、時折吹いてくる風と戯れるようにゆらゆらと揺れて流れた。
昨日の放課後、兎月は静さんから脅迫されて此処に呼び出されたのだ。
屋上から飛び降りようとするとか、普通じゃない。もっとも、本当に飛び降りるつもりなんて無かったかもしれないが。
「兎月は私のどこが好き?」
「どこも好きじゃない……」
彼女とは殆ど初対面だ。兎月の言葉はそっけない。
「私はね。兎月の顔が好き」
返事を無視して、静さんは言葉を紡ぎ続ける。
「鼻から口に掛けての輪郭が好き」
シャボン玉を飛ばすように、空々しい言葉は初夏の空の下に浮かんでは消えてゆく。
「困っているときの表情が好き。それから頭の形も好きだし、首の細長さも好き。あと――」
「夜須女さんは、僕に何か大切な話があるんだよね?」
終わりそうも無いので、静さんの独り言のようなものに割り込む。
「大切な話?」
「手紙に書いてあった。大切な話があるって」
「……そうね。でも、大切な話の前に、コレ」
静さんが白いナプキンに包まれた箱を二つ取り出した。
「お弁当?」
「うん」
「もしかして作ってきてくれたの? 僕に?」
「もしかしなくても兎月に作ってきたのよ」
言いながら一方の包みを兎月に手渡す。指が触れると、自らの温もりを恥じるかのように白い手を引っ込める。
その頬に差す紅からは恥じらいが、所作からは慎みが感じられた。
やはり教室の中の無表情な少女と同一人物だとは思えない。ギャップ萌えという言葉を思い出す。
「ありがとう……」
ぎこちない表情でお礼を言ってから、期待して箱を開ける。
「?」
ポリエステル製のランチボックスの中には、スライスされたフランスパンがキッチリと行儀良く収まっていた。
他には何も無い。ただ、それだけの箱。
見間違いでなければ、これは静さん的なジョークなのかもしれない。
そう思って静さんの持つ箱の中身を確認すると、そちらも同じ有様であった。
「あの……」
「何?」
「なんでもない……」
これ弁当箱に入れる必要なくない? というツッコミを入れようとして、止める。
「コーヒーもあるの」
バッグから魔法瓶を取り出すと、静さんは楽しそうに紙コップに黒く香ばしい液体を注いでゆく。
「ブラックだけど、兎月は大丈夫?」
コーヒーが注がれた紙コップを手渡される。
一口飲むと、苦味が口いっぱいに広がって残った。
いろいろとツッコミどころが多すぎて、いちいち指摘する気にもなれない。また、指摘したところで何か意味を成すとも思えなかった。
まるでそれが当たり前であるかのように、静さんはフランスパンをもくもくと口に運んでいる。
本人は至って真面目なようだ。
「夜須女さんはフランスパンが好きなんだね……」
「フランスパンって、美味しいわよね」
「…………なんだか泣きたくなってきた」
事実、兎月の鳶色の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「フランスパンが嫌いな人っていないから、無難だと思って。喜んでくれたみたいで嬉しい」
顔を赤らめてみせる静さんと、もはや言葉も無い兎月とでは精神的な温度差が太陽と月の表面くらいありそうだ。
おもむろに兎月がバッグから弁当箱を取り出す。
今朝、現子が作ってくれたものだ。
「ちょうど今さっき思い出したんだけど、そういえば僕、弁当持ってきていたんだった」
あまりにも不自然極まりない言動で、兎月は弁当持参をアピールする。
「…………」
「僕は自分の弁当を食べるから、パンは夜須女さんに返すよ」
先程まで黙々とフランスパンを口に運んでいた静さんの指が止まった。
「捨てて……」
大きな瞳が、兎月を真っ直ぐに射抜いている。
「持ってきたお弁当は捨てちゃえばいいわ」
静かに笑顔を浮かべているが、目は笑っていない。
「でも、食べ物を粗末にするのは良くないことだし……」
「私たち、これからずっと一緒なのだからお昼は同じものを食べるのが良いと思うの」
「なんだって?」
今、彼女は聞き捨てならないことを言った。
「私が捨ててあげる」
ゆらっと伸びてくる静さんの細い腕をスルリと躱す。
お弁当を奪われるわけにはいかなかった。
「これは手間暇掛けて作ってくれたものだから、そう簡単には捨てられない」
「私のだって手間くらい掛けてあるわ。このコーヒーは豆から挽いてサイフォンで淹れたのよ。サイフォンで淹れると後片付けが結構面倒なんだから!」
拘る視点がズレている。兎月が問題にしているのはコーヒーではなくて弁当の中身のほうである。
静さんの細い指に捕まらないように、兎月は弁当箱を縦横無尽に振って抵抗する。
まるでバスケットボールの奪い合いのようで、傍から見れば滑稽な光景に違いなかった。
静さんは兎月から弁当箱を奪えないもどかしさに内心イライラしていた。
兎月が自分の用意してきたフランスパンとコーヒーよりも、他人が作ったお弁当のほうを大事そうにしているのも嫌だった。
やがて弁当を奪うことを諦めたのか、静さんがフランスパンを手に持って迫ってくる。
それは怖いくらい突然で、面食らう行動だった。
「口を開けて。食べさせてあげる」
笑顔らしきものを浮かべているが、やはり目は笑っていない。
無表情の人形が突然微笑んだような不気味さがある。もはやホラーだ。
さすがにドン引きしている兎月の口に、静さんがフランスパンを強引に押し当ててくる。
フランスパンを使った「あーん攻撃」? で、兎月に持参してきた弁当を食べさせないつもりなのだ。
「照れなくてもいいのよ。誰も見ていないから」
「見てるわよ……」
その声音は風を伝って、ゆるゆると不機嫌そうに二人の耳へと届いた。
「ウチの兎月を虐めないでくれます?」
現子の瞳は呆れているようでもあり、責めているようでもあった。多分、その両方なのだろう。
静さんは目を細めて、敵愾心も顕に現子を睨みつける。
「あなた誰……」
「そこのダメ人間の妹です」
現子も静さんの瞳を睨みつけて言う。
「兎月に妹なんていないはずだけど……」
「家庭の事情で家族やってます。因みに同い年です」
その声には何処か勝ち誇ったような響きが含まれていた。
「家庭の事情で同い年の妹……」
親同士の再婚という可能性に思い当たり、静さんは舌打ちをした。
「食べ物を粗末にしないように……って、いつも言っているでしょう? 兎月」
「それは現子の言う通りだと思う」
「残さないでよ。洗うの大変だから」
この機会を逃す手は無い。兎月は現子が毎朝作ってくれる弁当に箸をつけた。昼休みは有限である。
「私は野々宮 現子。あなたの名前は?」
相手の名前を知ってはいるが、敢えて名乗らせることで精神的優位に立とうとする。
「夜須女 静です。ごめんなさい、名乗るのが遅れました」
現子と異なり、抑揚の無い声で自己紹介をする。
静さんには教室の中と同じ無表情の仮面が張り付いていた。
「それじゃ、夜須女さん。兎月の朝昼晩の食事は私の役割なの。だからお弁当とか余計なもの用意してこなくて結構だから」
去ってゆく現子を静さんが呼び止める。
「あなた……どうして屋上なんかにいたの?」
「友達がいないからよ!」
演出上、眼鏡のレンズがキラリと光る。言い難いことを堂々と口にして去ってゆく彼女が、兎月には少し羨ましい。
静さんと現子が棘のある会話を交わしている隙に、兎月もいなくなっていた。
屋上の床に落ちたフランスパンには、何処から来たのか羽虫が集っている。
「やっぱり悪い虫が付いてしまったのね……」
静さんは上履きで虫ごとフランスパンを踏み潰した。
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