第3話「深海魚の憂鬱」

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第3話「深海魚の憂鬱」

 小学生だった現子(うつつこ)兎月(とげつ)に興味を持ったのは、兎月が男子にも女子にも見えなかったからだ。  生理が来て性別というものを強く自覚させられたとき、自分の中の女性というあまりにも間違えようの無い確固たる表示プレートを嫌った。  どうして男と女という二つの性別が存在するのか。  なぜ一つではダメなのか。  なぜ境界線で綺麗に二つに分けられるような絶対性をもつのか。  その中間は存在してはいけないのだろうか。  ――どうして自分は女性であるのか。  それが大人になってゆくうえでの、通過儀礼の初歩であることは理解できる。  女性であることを拒絶したいわけではないし、男性になりたいとも思っていない。  ただその絶対的な確実性が、今まで性別というものを深く考えて生きてこなかっただけに怖かった。  突然巨大な手に掴まれ選別され、檻の中に入れられたような不快な理不尽(りふじん)さを感じた。  五年生になってクラス替えがあった。  そのときに、隣の席になった生徒に違和感を覚えた。  男子か女子か分からない。  男子にも見えるし、女子にも見える。(ある)いは、そのどちらにも見えない。  兎月という名前も読み方は分からなかったが、並んだ二つの漢字の雰囲気が無性別なイメージを連想させて現子の興味を惹く。  男と女、どちらの檻にも入れられていない存在に出会ったと思った。  ――この人は絶対的な確実性から逃れることが出来た特別な人なのだ。 「あの……」  現子は勇気を出して話しかける。 「名前、何て読むの?」 「兎月(とげつ)……」  無愛想な返事が返ってきた。 「私は現子っていうの」 「変わった名前だね」 「君の方が変わってるよ」 「やっぱり、そう思う?」  声を聞いても、男子か女子か分からない。  さして興味無さそうな反応だったが、現子の鼓動は高鳴りっぱなしだった。  今までに無い、初めて経験する(たぐい)の高揚。  憧れにも似たあの感情が、今にして思えば自分の初恋だったのだろうと現子は解釈している。  兎月と現子は、二人で両手を合わせて「いただきます」を言う。  食事の前の挨拶はとても大事だ。  夕食のテーブルにはハンバーグと付け合せの茹でたジャガイモにニンジン、季節野菜のサラダ、それとオニオンスープが乗っている。  現子は兎月に込み入った話をするときには、兎月の好きなものを作る。 「現子のハンバーグはいつ食べても美味しいな」  毎回同じことを言う兎月に、現子は「はい、はい」と御座(おざ)なりな態度で流す。  照れくさいのだ。  普段は感情の情報量が少ない兎月だが、食べ物の前では表情がよく動く。  現子はそれが見たくて料理をしているようなものだ。  食事の席での笑顔が料理をより美味しくさせるスパイスなのは全世界共通だろう。 「夜須女(やすめ) (しおり)と兎月って、どういう関係なの?」  他愛ない歓談の頃合いを見て、現子は今日の昼休みのことを話題に乗せた。  先日、突然目の前に現れた美少女についてのあれこれ(・・・・)を聞いてみる。 「よくわからない……」  シンプルな答えが帰ってきた。本当に「わからない」のだろう。 「ずっと一緒とか何とか言っていたけど」  言いながら現子はサラダの鮮に手を伸ばす。  何気ない食事の動作を混ぜて、何気ない話の一つを装う。 「いつから見てた?」 「最初から最後まで」  実は現子は、兎月たちよりも先に屋上にいたのだ。  そして昼休みの一部始終を見ていた。見せられたといってもいい。  見ようによっては仲良くも映ったし、そうでもないようにも取れた。  それでも気になるから兎月に直接聞いているのだが、当人も困惑しているようだ。 「どうして彼女が僕に構うのか本当に分からないんだ」  そもそも何故兎月なのか。兎月でなければならない理由。 「夜須女さんは兎月のことが好きなんじゃない?」  奇妙な手紙ではあったが、内容はラブレターのようなものだ。  でなければ「大切な話」なんて書くわけがない。 「そうは思えないんだよね」  切り取った肉塊を飲み込んだ後、否定する。  兎月は彼女の空々しい言葉の数々を思い出す。  それはまるで、嘘のような実態の無い軽さ。 「彼女は僕に気があるから近づいて来たわけではないと思う」 「それじゃ、どうしてよ?」 「だから、よくわからないんだよ」  不可解といった表情で最後の一口を咀嚼(そしゃく)している。 「……兎月はどう思ってるの?」  夜須女 静のことをどう思っているのか。  現子にとってはそれが一番気になるところであり、この話題の核心でもある。  彼女はやはり美少女だし、兎月の心が動いても不思議ではない。 「どうも思ってないよ。僕は彼女のことを昨日まで認識すらしていなかったんだから」  脳裏に何が浮かんでいるのか、困ったような顔をする。  事実、兎月には彼女の言動がまったく理解出来ないでいた。 「あれだけ目立つ人がクラスにいるのに知らないとか。兎月って、やっぱり変」  呆れた声音の裏に安堵を隠しながら、取り合えず現子は安心しながら食事の続きができた。  突然現れた嵐。  夜須女 静に対する印象は、兎月も現子もさほど大差がない。  現子は兎月が他人事にはまったくの無関心だと知っている。  それは恋愛に関してもそうだ。  学校ではそこそこ女子に人気があるくせに、彼女を作るどころか浮いた話一つ無い。  告白も何度かされたらしいが、すべて断っているようだ。  すると今度は別の意味で(いささ)か心配になってしまう。 「兎月ってさ……」 「ん?」 「女の子に興味ないの?」 「あるよ」 「好きな人とかいるの?」 「いるよ」  感情が揺れる様子も無く、平然と認めてしまう兎月に現子のほうが動揺してしまった。 「そ、そう。なんだか安心した。そういうの興味無いんだと思ってたから」 「興味ないよ。というか、あまり積極的に関わろうとは思わない」  言っていることが、よく分からない。  結局、兎月も夜須女 静に不可解というレッテルを貼る資格は無いのだった。 「いい加減だね」 「いい加減だよ」 「つまらないね」 「つまらないよ」  兎月のナイフとフォークが音を立てて食事の終わりを告げる。 「きっと僕は恋愛とかじゃなく、それなりの時期にお見合いしたりして当たり障りの無い平凡な結婚をして、つまらない人生を生きてゆくんだと思う……」 「自分で言って落ち込むのヤメてくださーい」 「現子が僕のお嫁さんになってくれれば何の問題も無いんだけど」 「無理でーす」 「どうして?」 「どうしてもでーす」 「そこまで理由も無くハッキリ断られると、いっそ清々(すがすが)しいよ」  兎月は両手を合わせて「ごちそうさま」と現子に言った。  兎月は夕食を食べ終えると後片付けと食器を洗ってから、程なくして風呂に入る。  一時間近くはバスルームから出てこない。長湯なのだ。  誰も居ないはずの兎月の部屋で、小さな人影が揺れた。  年頃の少女のシルエット。  窓越しに入ってきた車のヘッドライトが、ゆるく結ばれた明るい髪色をカーテン越しに浅く撫でては消え去る。  現子は段々と闇に慣れてきた瞳で、ゆっくりと兎月が毎夜体を休めているベッドの中に注意深く身を沈めた。  シーツの匂いを嗅ぐと兎月の匂いがして、脳が揺れるような感覚に胸を酔わせる。  理屈の無い淡い感情が現子の中を支配してゆく。  こういうとき、自分はマトモではないと感じる。  時間がとても緩慢に流れてほしいと願う。  現子の一日の時間の中で、兎月を一番身近に感じられる数十分。 「兎月……」  夜の中で、返事が返ってくるはずのない名前を呼ぶ。  再び兎月と巡り会えたのは、奇跡だ。  四年ぶりに兎月と再開した日のことを、現子は今も鮮明に思い出せる。  母が再婚することになって、その相手方の連れ子揃って食事をすることになった。  初顔合わせの気が乗らない席で、目の前に座っていたのは初恋の幼馴染みだったという使い古された少女マンガのパターン。  サラサラの細い髪の毛。肌理(きめ)細やかな肌の上に、バランスよく浮かび上がる眉や目や鼻や唇。細い顎。  鳶色(とびいろ)の瞳の中に、目を丸くした現子が映る。 「ひさしぶりだね」と現子が言うと、中性的な顔には疑問符の表情が浮かんでいた。  男性を強く主張してくることのない顔立ちも、線の細い体つきも、声も、掴みどころの無い性格も、現子が初めて会った頃のままだ。  モノトーンの淡いイメージの兎月。  未だ絶対的な確実性から逃れている。  背は伸びていたが、基本的に以前と何も変わっていない容貌が嬉しかった。  窓越しの街灯が映し出す影の中に、今日の昼休みに見た屋上での兎月と夜須女 静との光景が浮かび上がる。  何故二人だけで屋上に?   誘ったのは夜須女 静(あの女)だとしても、兎月は断ることをしなかったのだろうか?  次々と現子の中の不安感が影と重なり濃くなってゆく。  自分と他人を比較するなんて意味の無いことだと分かってはいる。  しかし夜須女 静のような美少女を見てしまうと、現子の気持ちはどうしようもなく内へ内へと向かっていって止まらなくなってしまう。  同性として感じる嫉妬。あるいは、劣等感というやつだろうか。  夜須女 静が校内の男子に人気があるとか、そういう話題の人物のままなら気にする必要は無かった。  それならドラマなどの御話に出てくる架空のキャラクターのようなもので、現子にとって他愛の無い存在に過ぎない。  しかし、身近に強い現実感を伴って関わってくるとなると話は違ってくる。  気持ちが沈む。モヤモヤとした感情の海の底へと沈んでいく。  現子は自分が深海魚のようだと思うことがある。  兎月の部屋を泳ぐ、場違いな深海魚。  今夜の夕食を兎月と一緒に囲んでいるとき、他愛の無い会話の最中でさえ現子は自分の心の中に何か得体の知れないバケモノが蠢いているのを自覚していた。  家の前を通り過ぎる車の、何度目かの走行音が遠くへ消え去ってゆく。 「お嫁さん……って、言ったな」  兎月が本気で言っていないのは、現子には百も承知のことだ。  もう何度、同じ文句を聞いてきたことか。  兎月が部屋に居ない時間を見計らって、無断で部屋に上がり込みベッドに横になるような義妹の行動を知っても尚、そんな軽口を言ってくれるだろうか。  食事が終わってテレビをつけたとき、浜に深海魚が打ち上げられたとニュースでやっていた。  その姿は醜く膨らみ、目玉は飛び出していた。  冷たい海の底からやってきたバケモノ。  現子は兎月への気持ちを黙っていようと思った。  自分の存在がバケモノに見えてしまわないように。
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