第4話「嵐という花言葉」

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第4話「嵐という花言葉」

 兎月(とげつ)が思う理想の学園生活は平凡な平和であった。  昨日と似たような今日が、明日も明後日も緩やかに続いていく毎日。  ドラマなど要らない。  眠っている人間の心音のように、淡々と刻まれる日々をこそ彼は望むのだ。  自分をつまらない人間だと思わないではない。が、実際につまらない人間なのだから仕方ないとも思う。  そんな自己完結の中で兎月はヒソヒソと囁くように息をしている。  だから兎月にとって夜須女(やすめ) (しおり)は嵐であった。  つまらない自分を日常から非日常へと連れ去る嵐。  夜須女 静は嵐に例えることが出来る花なのだ。  ならば変化は痛みを伴う棘のようなものであろうか。  ともあれ、予兆は朝の目覚めから始まっていた。  いつもより三十分も早く目が覚めてしまったのだ。  兎月が目覚ましよりも前に起きてしまうのは、本当に(まれ)なことだった。  ――こんなことが起こるなんて、何か良くないことの前触れではないかしら。  自分の知らないところで陰謀が画策されているような、そんな確信にも似た予感。  兎月は開いた(まぶた)を再び閉じた。  突然鳴り出した目覚ましのアラーム音が、まるで非常事態を告げる緊急警報のように部屋中に響き渡る。  ――不吉な朝だ。いっそ学校を休んでしまおうか。  そんな甘美な毒が兎月の精神を支配して、すぐ全身に回ってゆく。  こんな緊急事態に学校なんて呑気に行っている場合ではない。  平和を守るためには、今日一日学校を休んで部屋でゴロゴロしているべきなのではないか。 「兎月ー、起きてるー?」  現子(うつつこ)が叩くノックの音がアラームに重なる。  兎月は特に意味も無く寝返りを打った。  いつものように、まだ寝ているのだろう。そう思った現子がドアを開けて部屋へと入ってくる。 「なんだ起きてるじゃん」  兎月と視線を合わせた後、エプロンを着けたままの現子がアラームのスイッチを切る。  部屋は静かになった。 「朝ごはん出来たよ」 「…………」  兎月はそっぽを向きながら、片手を頭に添えて辛い表情を作ってみせた。 「なんだか調子が悪いんだ。頭が痛いような気もするし……」  いかにも具合が悪そうな声を作ってみる。 「熱は無いみたいだけど」  自分と兎月の額に手を当てながら、現子が温度差を探って首を傾げた。 「熱とか頭痛とか、そういうことじゃないんだ」 「それじゃ、どういうことよ」 「世界平和に関する問題なんだ」  またか。と、現子は呆れた視線を兎月に送りつけた。  面倒ごとが発生すると現実から逃避しようとする。  夜須女 静絡みだということは、すぐに察しがついた。  おそらく昨日の夕食の時分から、精神の逃避行は始まっていたのだろう。 「あのね兎月。サボリは絶対に許さないわよ」  ハッキリとした口調からは意志の強さが汲み取れた。  こうなると、あらゆる言い訳は現子に通じなくなる。  兎月の平和は妹が許さない。  パンの焼ける香ばしい刺激と紅茶の香りが、兎月の身体機能をゆっくりと目覚めさせてゆく。 「兎月の気持ちも分からなくはないけどさ」  トーストにバターを塗りながら現子が呟くように言う。 「男子の憧れがあんな変人だなんて、私も正直驚いたし」 「おかげで僕はフランスパン恐怖症になるところだったんだ」  乗らない気持ちでトーストを齧る。弱気な歯型がパンに残った。 「でもズル休みはダメ」 「そうだね……」  現子と暮らしていて、ズル休みなんて無理な話なのだ。 「それにハッキリしない兎月も悪いよ」  元気なくパンを齧る兎月の、やはり元気ない表情に向けて現子は言葉の先を尖らせた。 「付き纏ったりしないでって、言えばいいのに」 「それは今日、ちゃんと言うさ」 「へぇ」  疑わしいといった口調と視線を兎月に向ける。 「本当に言えるの?」 「言うさ」  けれど夜須女 静には有無を言わせない迫力というものがあった。  兎月はその執念のようなものに気圧(けお)されてしまう。 「あの人ってさ、顔が良いのに勿体無い性格してるよね」 「勿体無い?」 「なんだか可哀想じゃないか」 「私は全然可哀想とか思わないんですけど」  夜須女 静(あの女)は危険だ。そのうち何か取り返しのつかないことをする。そう現子のカンが告げていた。  学校へと着いてしまうと、兎月の気持ちは幾分(いくぶん)軽くなった。  自分の気持ちをシッカリ伝えてやろうという気にもなってくるから不思議だ。  夜須女 静は休み時間のたびに、相変わらず誰とも話さず詰まらなさそうに携帯を弄っている。  それでも彼女は周囲に埋没したりはしない。  球体間接人形のように、異質な存在感を放って教室の中に()る。  彼女に対する兎月の見解は『不可解』だった。  自分にちょっかいを掛けてくる理由が分からない。  嘘をついてまで「好き」と言ってくる真意が分からない。  理解出来ないものは好きになれないから、兎月は距離を置きたがる。  それでも急速に自分との距離を詰めてくる彼女に、強い警戒心と猜疑心を覚えていた。 『昼休みに時間をください。場所はいつもの屋上で』  夜須女 静からのメールが届く。  このメアドにしても兎月自身は教えた覚えは無く、どうやって調べたのか見当もつかない。  やはり彼女は嵐だった。
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