第6話「金魚鉢の中の異世界」

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第6話「金魚鉢の中の異世界」

 衣替えの季節。  始業前の一時(ひととき)。  この時期、教室の空気が一際騒がしくなるのは、制服が夏服に変わってゆくことで生徒たちの言動も開放的になるからかもしれない。  兎月(とげつ)も今日から夏制服だ。といっても、男子は半袖になった薄手のワイシャツにズボンである。  単純に学ランの上着を脱いだだけという感じで、たいして変わり映えはしない。  一方で女子の夏服は新鮮である。  夏服になったことで印象がガラリと変わる女生徒も少なくはない。  そして、夏のセーラー服にときめかない男子はいない。  特にこのクラスには夜須女(やすめ) (しおり)という校内でも有名な非現実的美少女がいるのだ。  噂では隠れファンクラブまで存在するという。  クラスの男子全員が静さんの夏服姿を楽しみに登校してきているといっても過言ではないかもしれない。   ただし、一名を除いて。  静さんは髪型をロングのストレートからポニーテールに変えており、清涼感ある白い制服と相俟(あいま)って涼しげだ。  袖からスラリと伸びた細い両腕が作る何気ない仕草も、髪をアップしたことで覗ける(うなじ)の白も、男子の目を惹くには充分すぎるほどに眩しい。  美人は何を着ても、どんな髪型も、結局は似合ってしまうので得だ。  当然クラスの男子たちの注目の的であり、女子たちの羨望の的でもある。  ただ、本人は意識しているのかいないのか、相変わらず詰まらなさそうだ。  詰まらなさそうに息をして、詰まらなさそうに瞬きをする。  まるで無口と拒絶が彼女の存在意義のように。  兎月はクラス内のざわめきを他所(よそ)に窓の外を見ていた。  景色を眺めているわけではない。教室内から意識を遠ざけるために、ただ外に視線を向けている。  静さんに集まる視線と意識の集中が、彼女の素っ気無い態度と存在感に弾かれて自分自身へと突き刺さってくるようで居心地が悪いのだ。  これから毎日こんなふうなのかと思うと胃が痛くなってくる。  ヘタレには重すぎる状況だった。  一時間目の授業が始まって暫く経った頃。 「夜須女さん、教科書はどうしたの?」  プリミティヴなスーツに身を包んだ、プリミティヴな女性教師が、プリミティヴな口調で静さんに質問を投げつける。  静さんは机に教科書を出していなかった。 「すみません先生。私、教科書を忘れてしまって……」  申し訳無さそうに目を伏せる。 「では隣の人に見せてもらいなさい」  女性教師が言うや否や、静さんが机を兎月のほうへピタリと寄せてくる。 「教科書、見せてくれる?」  この状況で嫌とは言えない。断る理由も()してない。  兎月は無言で教科書を静さんとの間に置いて開く。 「ありがとう」  うっかり教科書を忘れることは誰にだってある。  兎月も忘れ物をすると、辞書や教科書を借りに現子(うつつこ)の教室まで行く。  静さんは友達がいない(ように見える)ので、忘れ物をすると後が無いのだろう。  静さんの隣の席の一方は女子なのだが、兎月に頼ってくるのも仕方ない。  二人は知り合いのようなもの……なのだから。  思えば一時間目の休み時間から教室の雰囲気はおかしかった。  それは周囲の空気だったり、クラスメイトの視線だったり、あるいは静さん自身だったのかもしれない。 「さっきは教科書ありがとう。助かったわ」 「気にしなくていいよ。困ったときはお互い様だし」 「そうなの。私、大抵は困っているのよ」  静さんは全然困ってなさそうに「席が隣同士って、いいね」と、兎月に同意を求めてくるのだった。  漠然とした違和感を残す、どこか不自然なやり取り。  そう感じるのは兎月が静さんと教室で会話をするのが実は初めてだからなのかもしれないし、普段から感情らしい感情を表に出さない静さんが、今日はどうしてか笑顔だからなのかもしれない。  必要以上に他人と接触することを拒み、いつもどこか冷めた感じで表情の変化に乏しいミステリアスな美少女。  そんな彼女のらしくない(・・・・・)振る舞いが、初夏の教室を異空間めいたものにしていた。  事実、彼女がクラスの誰かと親しげに会話するところも、彼女の笑顔も、クラスメイト全員が初めて目にするものだったのだ。  二時間目の現国の時間に、その偶然は起こった。 「ごめんなさい。私、現国の教科書も忘れてきてしまったみたい……」  再び二人の机が隣接された。 「また見せてくれる?」  上目遣いで兎月の表情を窺う。  一時間目と二時間目、続けて教科書を忘れてくるなんてありえるだろうか。それは勿論ゼロではないだろう。  それにしては静さんの態度が、まるで予定調和の中の出来事のように見えるのは気のせいだろうか。  もしかしてワザと教科書を忘れてきたのか?  一冊の教科書を兎月(ぼく)と二人で見たいがために?  そんなバカみたいなことを考える高校生がいるだろうか?  違和感の正体を求めて、様々な猜疑(さいぎ)が兎月の中でぐるぐると回っていく。  加えて静さんが教科書を忘れたことで、歓迎できない状況が付随して発生していた。  クラスの視線である。  それはつまり、女子からの「あの二人って、あんなに仲良かったっけ?」であり、男子からの「なんであんな女男みたいなヤツが?」という無言の圧力である。  気のせいなんかではない。  男子からは憧れの、女子からは羨望の眼差しで見らている非現実的美少女と、傍目には仲良く会話と感情のやり取りをしているのだ。  兎月も注目されないわけがない。  兎月はどちらかといえばクラス内では目立たないほうだ。というより、目立つ行動を取らないといったほうが適切な表現かもしれない。  それは中性的、性別の曖昧性を持つ兎月の一種の処世術であり、護身術でもあった。  それが静さんに随時話しかけられているものだから、同時に注目を浴びてしまっている。  目立つことを好ましく思わない兎月としては非常に厄介な状況だ。  特に男子からは嫉妬にも似たあからさまな視線を向けられて居心地が悪い。  やはり夜須女 静は、どうしようもなく男子の目を惹く存在なのである。  まだ二時間目が終わったばかりだというのに、兎月の精神的疲労はピークに達してしまった。  イザとなれば保健室に退避するという選択も考慮しなければならない。  抜け殻のような視線を泳がせていると、教室に他のクラスの女生徒が入ってくるのが見えた。  兎月はその女生徒のことを知っている。  一年生の頃、兎月と燈麻(とうま)と一緒のクラスだった生徒。  二年生になってクラスは別になってしまったが、たまに兎月たちのクラスにやって来る。  舞泉(まいいずみ) 和華(わか)。  日陰の花を思わせる地味で静かな佇まい。集団の中に埋没する無個性。ショートヘア。  眼鏡を掛けているが現子とはイメージが大分違う。  和華の眼鏡は現子と違って光を反射するような迫力は無く、暖かな記号としてそこに存在する。  それらは兎月が和華に抱く勝手なイメージで蜃気楼みたいなものだ。そこに在って、無い。  しかし、だからこそ蜃気楼ゆえに気持ちが高揚するのだ。保健室に行く気さえ無くなるくらいに。  和華は何やら燈麻と会話をしているようだが、話の内容までは兎月には分からない。  どんなことを話しているのか気にしていると、突然視界が遮られて何も見えなくなる。  こんなことは前にもあった。背後から静さんが両手で兎月の目を塞いでいるのだ。 「あーあ。兎月の好きな人、分かっちゃった」 「……それ多分、ハズレてる」  兎月が否定しても静さんにはバレバレである。  静さんから見た和華は、眼鏡をかけた地味な娘にしか映らない。 「可愛い()ね」  静さんは他の女性を本心から可愛いと思ったことは一度も無い。これから先も無いだろう。  それは自身の容姿とは関係無しに、彼女の価値観だ。  それでも兎月の前で「可愛い」と他人を形容するのは、兎月が片想いしている娘を(けな)したくないからだ。  兎月に嫌われたくないから、「可愛い」という嘘をつく。   二度あることは三度あった。  三時間目の歴史の教科書も静さんは忘れてきた。  現子なら「おまえは転校生の初日か!」と、ツッコミを入れたかもしれない。  並べられる机。突き刺さる視線。  もういっそ、ひと思いに教科書を全部静さんに渡して楽になってしまおうかとも思う。  これはもう忘れたというよりワザと持ってこなかったと考えるほうが自然だし、事実その通りなのだろう。  目的は何とかして兎月と関わるための口実が欲しかったから。  大人っぽい見かけの割に、静さんの考えることは子供っぽい。  ギャップ萌えという言葉があるが、兎月には縁のないものである。  最早(もはや)呆れて何も言えないのだが、おそらく本人は大真面目なのだろう。  大真面目な好意の行為なのだった。  三度目の休み時間に兎月は些細な抵抗の意を表明してみる。 「もしかしなくても、それが当たり前のように抜かりなく、次の授業の教科書もあらかじめ忘れる予定として忘れてる?」 「何を言っているの? ちゃんと持ってきているわよ」  静さんは不敵な笑みを浮かべながら、落ち着いた動作で鞄の中から教科書を出して兎月に見せた。  一時間目の英語の教科書から全部きちんと揃っている。 「全然忘れてなんかいないね……」 「うふふ。二時間目でバレるかと思ったんだけど、三時間目まで兎月に教科書見せて貰えてラッキー。みたいな?」  兎月は酷く疲れてしまい、机に突っ伏した。  今月、否、今年に入って一番疲れを感じた瞬間だった。 「ごめんね。でも、落ち込む兎月も好き……」  悪戯を見抜かれた子供が見せるような罪の無い笑顔の裏で、静さんは二時間目の休み時間に見た大人しそうな地味眼鏡の女生徒のことを考えている。  兎月が言葉では否定した想い人。  如何(いか)にも教師受けが良さそうな委員長タイプ。  本心では自分のほうが女性として勝っているし、兎月に相応しいのは自分しかいないと思っている。  しかし、容姿がどうであろうと大事なのは兎月の気持ち。兎月の想いが誰に向いているのか。  それが最も重要なことなのだと静さんは理解している。  ――兎月はあんな娘の何処が良いのだろう。  考えれば考えるほどイライラする。  自分の中で、どうしようもなく禍々しい感情が沸きあがっていくのを自覚する。  気がつけば、静さんは無表情になって唇を噛んでいた。  嫉妬と羞恥が綯交(ないま)ぜになったような、狂気にも似た激しい感情を一切表情に出すことは無く。  放課後の一般教室には特異な雰囲気がある。  帰宅した生徒や部活に励む生徒たちから置いていかれた者だけが入室を許された異世界。  そんな異空間で日直の兎月は学級日誌を黙々と記していた。 「兎月、好きな人がいるって言ってたわよね。だから私と付き合えないって……」  兎月の他は静さんしかいない。  非現実的美少女ならば、異空間にその存在を許されても不思議ではない。  彼女は兎月の後ろに立って、南へと伸びる飛行機雲を見ていた。 「その好きな人に告白とかしないの?」 「しないよ」 「……どうして?」 「僕の好きな人は、僕のことを好きではないような気がするからだよ」  結局は兎月(ヘタレ)の片想いなのだ。 「なら、私と付き合ってくれてもいいんじゃない? 兎月がその娘と付き合う日は永遠にやって来ないんだから」  まったくもって正論である。遠くから見ているだけで想いが通じるなんてことはありえない。  だからこそ、静さんだって行動しているのだ。  兎月は何事にも前向きな彼女の思考や行動力は尊敬していた。 「その娘にしたって、好きな人くらい居るのだろうし……ね」  兎月はいろいろと思うところがあるようで、頬杖を突きながらタメ息をついた。 「私ね。兎月のその困ったような、そんな落ち込んだ顔も好きよ。もっともっと困らせたくなるくらい……好き」 「悪趣味だね……」 「恋愛なんて悪趣味なものよ」  西へと傾いた陽光の緩い光に照らされて、伸びた二人の影はまだ交わる気配を見せない。  飛行機雲はいつの間にか消えていた。
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