第8話「鏡を壊す私」

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第8話「鏡を壊す私」

 和華(わか)は授業など上の空で夜須女(やすめ) (しおり)のことを考えていた。  彼女は眉一つ動かさずに兎月(とげつ)のことを振れと言った。未練を断ち切らせるのが兎月のためだと。  何故、夜須女 静はそんなことをわざわざ言うのか。  おそらく、彼女は兎月のことが好きなのだ。  どうやら夜須女 静と兎月は付き合っているというわけではないらしい。  信じられないが、夜須女 静の片想いなのだ。  ここで和華は新たな疑問にぶつかる。  どうして兎月は夜須女 静と付き合わないのだろう?  相手は学園でも有名な美少女だ。他に好きな人でもいるのだろうか。それとも人の好みは千差万別で、彼女を好きにならない男子も存在するということなのかもしれない。  ――しかし、  夜須女 静の言葉を信じるなら、兎月は和華のことが好きということになる。  ――これは本当だろうか?  和華は兎月のことを異性として見たことが無いから、そんな結論自体が思いもよらぬことであった。  もちろん本人から直接聞いたわけではないし、聞くわけにもいかないから確かめようが無い。  それに兎月や夜須女 静が誰を好きでも、和華には関係の無いことである。  和華は燈麻(とうま)のことが好きだし、燈麻も和華のことが好きで……。  ――違う!  否定と同時に和華の頭に球体間接人形のような愛想無い顔が浮かぶ。  燈麻の中には夜須女 静が居る。燈麻の想いは全てが自分に向けられているわけではない。  夜須女 静は自覚も無しに、和華の欲しいものを容易く手に持って涼しい顔をしているのだ。  しかも、彼女は燈麻の名前すら知らずにいる。知る気さえないのだろう。  ――許せない!  和華の中の薄暗いものがさらに陰ってゆく。  もしも、本当に夜須女 静の想い人が兎月で、兎月が自分を好きなのだとしたら。  そんなありえない事が、ありえるのだとしたら。  このとき、和華は禁断の果実に手を伸ばしてしまった。  学年問わず男子生徒の憧れである夜須女 静が、舞泉(まいいずみ) 和華(わか)という地味な一般女生徒に嫉妬している。  和華の全身に電流のような刺激が流れた。  それは甘美な、今まで味わったことの無いような心地良さ。  こんなゾクゾクするシチュエーションがあるだろうか。  だってこれは、ある意味学園の美少女に、女性として勝ったということなのだから。  夜須女 静が好きで好きで堪らない兎月は、彼女よりも和華のことが好きなのだから。  兎月が自分のことを好きなら、好きなままにしておけばいい。  和華は今まで兎月のことを苦手な元クラスメイトくらいにしか思っていなかったけれど、興味が出てきてしまった。  それは恋愛とは程遠い、自身の優越感を満たすための対象としての興味だった。  放課後。  和華が屋上に出ると、(ぬる)い空気の中で静さんが待っていた。 「屋上は立ち入り禁止ですよ」  少し余裕のある言い方をする。 「そんなことより、兎月を振ってくれる決心はついた?」  静さんは和華のほうを振り向きもせずに、後姿のままで遠くの空を見ているようだった。  長い髪が涼しげに風と戯れている。 「そのことなんですけど、二つほど質問してもいいですか?」 「何かしら」 「兎月くんが私のこと好きって、本当なんですか?」 「本当よ。残念ながら……」  まるで感情を忘れてしまったかのように、静さんの言葉は淡々と無機質に紡ぎ出される。 「夜須女さんは兎月くんのことが好きなんですか?」 「それ、答える必要あるわけ?」 「答えてくれなければ私はあなたの言うことは聞きません」  時折吹き抜けてゆく風が、静さんの髪を(もてあそ)ぶように撫でて抜ける。 「……兎月のことが好きよ」  それはどうしようもなく、ため息のような返答。 「そうなんだ。やっぱり、そうなんだ」  和華の中で、確信と愉悦の花が咲き乱れる。 「夜須女さんには悪いけど、私は兎月くんに興味があります」 「嘘言わないで! あなたは兎月のことを何とも思っていないわ!」  静さんの感情が爆発した。声を荒げて振り返る。繊細な髪が(くう)で暴れる。 「今日、夜須女さんの話を聞くまでは興味無かったんですけどね。だから兎月くんのことを振りたくありません」 「あなたは何を考えているの?」  和華の全身が高揚感で震えている。静さんに和華の気持ちは理解できない。 「安心してください。私のほうから兎月くんに告白なんてしないと思いますから」  和華は少し(わら)って静さんを見た。 「兎月に可能性の無い期待を押し付けておくつもり?」 「だって仕方ないじゃないですか。兎月くんはアナタよりも私のことが好きなんですから」  和華の心は優越感で曇っている。  もしも此処(ここ)に鏡があったら、鏡面に映る自分を和華は嫌ったかもしれない。 「アナタ、外見と違って中身は随分と歪んでいるみたいね」 「何とでも言ってください。伝えることは伝えたし、私は用事があるのでもう行きますね」  和華はそそくさと屋上を後にした。 「あのクソ(アマ)……」  静さんは形良く整った爪を一噛みした。  下校時刻も迫った誰も居ない教室で、和華は燈麻に抱きついた。 「今日は随分とご機嫌だね」 「だって今日はとても嬉しいことがあったの」  和華と燈麻は今日、二度目のキスをした。  それは二人だけの高尚な行為であるはずだった。 「和華……泣いてる?」 「あれ?」  少女は左の瞳から零れ落ちた一粒の涙に、言われて初めて気がついた。  それは自分の中で大切にしていた何かが壊れてしまった音の欠片なのだということまでは、とうとう気づくことが出来なかった。
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