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第9話「月面軟着陸」
誰か他の女が居るのが嫌だったから、出来るなら兎月の心から和華を消してしまいたかった。
あの歪んだ性格も、自ら告白をしない兎月には永遠に分からないだろう。
それでも静さんの取った行動は、浅はかだったのかもしれない。
和華が兎月のことを何とも思っていないのなら、放っておくという手もあった。
しかし、それだと兎月はずっと和華のことを想い続けるかもしれない。
それは兎月が静さんのものにはならないということだ。
人の心が思い通りにならないことくらい、分かっていたはずなのに。
今後、和華は思わせぶりな態度をとって、兎月の心を弄ぶかもしれない。
そうやって兎月に期待を持たせておいて心をキープして、本当は何とも思っていないくせに。
「念力で人が殺せたらいいのに……」
そんなことを考えていたら朝になってしまって、既に一時限目が始まっていて、雨の音もするし、静さんは学校を休んだ。
今頃、兎月はどうしているだろうか?
私が学校を休んで安心しているだろうか? それとも心配しているだろうか?
兎月が窓際でいつもと変わりなく、平然と授業を受けている光景が頭に浮かぶ。
「兎月が心配するわけないか……」
その事実は、分かっていても静さんを落ち込ませる。
コーヒーを淹れようとしたけれど、再びベッドへ潜り込んだ。
夢の中、夢を見る。
静さんは月に居た。
もちろん月になんて行ったことはないのだから、完全に静さんのイメージする月世界だ。
その場所が月なのだと、夢ゆえに思い込んでいる場所だ。
そこは草一つ無い、荒涼な風景が拡がっていた。
見上げれば空は灰色の雲に覆われていて、何処からか吹いてくる温度の無い風が厚い雲を押し流していた。
「寂しい場所ね。でも、なんだか懐かしい気もする……」
映る全てがモノトーンの世界。これが自分の中の心象風景なのだとしたら、少し悲しい気がした。
アテも無いまま歩いていると、大きな煙突のある工場のような建物に着いた。
その圧倒的な存在感に、立ち尽くす。
こんな場所に人工建造物があることを不思議とは思わなかったが、奇妙だとは思った。
何のための建物なのか。
よく見ると建物の煙突から出ているのは、煙ではなくて雲だった。
「あれは雲の生産工場なんだ」
煙突から出た雲は空の雲へと行き着いて、どんどん風に流されて何処までも行く。
絶え間なく作られてゆく雲の影は、この世界の果てまで覆うのだろう。
ゴォォォォン!
突然工場から音の塊が飛んできて、静さんの全身を揺さぶった。
何処からか名前を呼ばれたような気がして辺りを見回すと、数歩先の向こうで何かが蠢いている。
「兎?」
一羽の兎が耳をピクピク、鼻をヒクヒクさせて静さんのほうを見ている。
初めて生物に出会った。
近寄っていくと逃げてしまう。
兎は一定の距離を保ちながら、血のように光る瞳で観察するように静さんのことをじっと見ている。
モノトーンな世界に咲く、紅。
見ているだけで近づいてはこない。居なくなってしまうわけでもない。
「兎は臆病だものね……」
無理に近づいていけば、離れていくだけ。
今はその姿が何処かに消えてしまわなければそれでいい。
いつの間にか眠ってしまっていた。
雨の音で目が覚めたのだと思ったら、どうやら呼び鈴の音だったらしい。
「はい……」
ノロノロとドアホンの受話器を取る。
「兎月だけど、静さん?」
一瞬、何が起こっているのか分からなくなる。
「兎月一人? 妹さんも一緒なら帰ってくれる? 妹さんだけ」
「僕一人だよ……」
「ちょっと待ってて」
手早く顔を洗って、寝間着からせめて部屋着に着替える。
本当は部屋も片付けて、もてなしの用意もしたいのだけれど時間が無い。
玄関を開けると、まるで宅配でもされたかのように兎月が傘を畳んで立っていた。
「こんにちは」
「あ……は、入って……」
あまりにも突然のことで、自分の意識すらも現実感に乏しい。
本当はまだ眠りの中にいて、目の前の兎月は夢が見せる幻影なのではないか。
そんな気になる。
「お邪魔します」
兎月は緊張した様子で三歩進んで玄関で止まった。
静さんのマンションに同じ年頃の人間が入ってくるのは初めてのことである。
「いきなりでゴメン。メールしたんだけど……」
「あ、私、寝てたから……」
もしかして、心配して来てくれたのだろうか? そんな淡い期待に胸が踊る。
「具合悪いの? プリントとノートのコピーを持ってきただけだから、すぐに帰るよ」
「大丈夫! もう何とも無いから!」
もともとズル休みなのだ。
「せっかく来てくれたのだもの。お茶くらい飲んでいって」
静さんはすぐにコーヒー豆をミルで挽き始める。
その音が意外と大きいことに兎月は驚いた。
静さんが2LDKのマンションに一人で住んでいることは本人から聞いて知っていた。そのとき携帯にマンションの住所をメールで送りつけられたのだ。
「フランスパン買ってきた」
近所のパン屋で丁度焼き立てを買うことが出来た。
「うん。さっきからいい匂いしてたから、知ってる……」
「あとバナナとヨーグルトも。冷蔵庫、開けていい?」
「今日は優しいのね」
静さんの声に仄かな悦びの花びらが舞う。
「……そうかな」
「そうよ……」
それは兎月が静さんのことを病人だと思っているからかもしれない。
兎月も子供の頃は床に臥せっていることが多く、心細かったのを覚えている。
一人暮らしなら、尚更だろう。
静さんの許可を貰って冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターとゼリー飲料しか入っていない。
気になって冷凍庫を開けると、中はロックアイスの袋だらけだった。
どうやって生きているんだろう。
「コーヒー淹れたよ」
リビングから部屋中に香ばしい香りが立ち上って回っている。
「美味しい。私、朝から何も食べてなくて……」
コーヒーを飲みながらフランスパンを口に運ぶ。
「静さんは本当にフランスパンが好きなんだね」
「恥ずかしいから、あんまり食べているところ見ないでね」
照れ隠しなのか、コーヒーを飲むフリをしてマグカップで口元を隠してしまう。
兎月もコーヒーカップに口をつける。
美味しいのだけど、苦い。相変わらずのブラックコーヒーだ。
此処には砂糖もミルクも無い。
それどころかリビングにはテレビも無く、キッチンには炊飯器も無い。
静さんの住んでいる場所には、生活感というものがあまり感じられない。
「嬉しいけど、ちょっと意外……」
「何?」
「もしかして心配してくれたの?」
「静さん、友達いなさそうだし……」
「私は兎月がいれば、それでいいから……」
言っている本人も、実は本人なりに恥ずかしいのだ。
静さんは兎月の前でだけは普通の女の子のように照れもするし、感情も揺れてしまう。
一方で兎月は感情を見せずに目を伏せるだけだ。
「ポニーテールは止めたの?」
「ああいうのは、たまにやるから新鮮でいいのよ」
兎月の下手な話題の逸らし方に、静さんは気づいてないフリをする。
「兎月がポニーテールのほうがいいって言うなら、そうするけどね」
ポーニーテールも涼しげで良いけれど、静さんにはロングが一番似合っている気がした。
それは単に兎月の趣味かもしれないが。
「静さん元気そうだし、僕はもう帰る――」
「そうだ! アルバム見る? ちょっと待っててね」
兎月が腰を上げて鞄に手を掛けると、帰宅を拒むかのように静さんが手を叩いて嬉しそうな声を上げた。
言うや否や、静さんはパタパタとアルバムを取りにいってしまう。
アルバム。静さんの子供の頃なんて、まったく想像ができない。
静さんは昔から今の静さんそのままのような気がした。そんなことは、あるはずがないのだけれど。
ともあれ昔の静さんの写真に興味があったので、兎月は再びソファーに腰を下ろす。
「お待たせ」
ご機嫌で一冊のアルバムを持ってくる。
静さんが二杯目のコーヒーを自分のカップに注いだ。コポコポと落ち着いた音がする。
兎月のカップにはコーヒーが飲みきらずに残っていた。
静さんがコーヒーを二口飲んでからアルバムを開いて見せる。
「ほら、これとかよく撮れているでしょう?」
「………………」
アルバムの中は兎月の写真だらけだった。というか、兎月の写真しか貼られていない。
感想があるとすれば、「盗撮は犯罪だよ」である。
これは静さんのアルバムではなくて、兎月のことを盗撮した写真を集めたアルバムだった。
写り込んでしまった女子は、マジックを使って丁寧に顔が塗り潰されている。
本当にこんなことをする人いるんだ。くらいにしか思わない兎月も変わっているのかもしれない。
「?」
中には兎月と静さんが一緒に写っている写真もあった。
静さんと兎月が並んで一緒に歩いていたり、静さんが兎月の頬にキスをしていたり。
当然、そんな事実は無い。
盗撮写真をさらに合成して、兎月と静さんが同じ時と場所を共有しているかのように作ってある。
「よく出来ているでしょ?」
頬を赤らめながら、偽物の思い出に彼女はどのような価値を見出しているのだろうか。
「これは未来のアルバムなの」
アルバムの表紙には、しれっと「未来」と書いてある。
ああ、見なければ良かった。と、兎月は頭の中で頭を抱えた。
盗撮も、その写真を合成して嘘の風景を切り取るのも、手間暇かかるだろうに。
そのエネルギーに、兎月は感心すらしてしまう。
そんな写真に混じって、一枚だけ奇異な写真が貼ってある。
電柱。否、電線の写真だ。人物は写っていない。電線を目的にシャッターが切られている。
その一枚だけデジタルではなく、アナログ写真なのも余計目に付く要因だ。
古くて既に色褪せている。
マトモな写真が一枚も貼っていないアルバムの中にあってさえ、それは明らかに異質だった。
「この電線の写真は……」
誰が撮った写真なのかが気になった。多分、静さんではないだろう。
「うん? それはね、私の子供の頃の写真」
「静さんは子供の頃、電線だったんだ」
「そうじゃなくて。私、子供の頃に電線が何処まで続いているのか気になって、電線の行き着く先を辿ってみたことがあるのよ」
答えになっていないが、あまり追求する気にもなれない。
「そのときにね。私、宇宙人に会ったの」
衝撃の展開である。
「……いきなりブッ飛ぶね」
「あ、信じてないでしょう?」
「それで宇宙人に会ってどうなったの?」
「信じてない人には教えてあげませーん」
上手くはぐらかされたような気がした。
兎月の携帯にメールが着信される。現子からだ。
『どこで何してるんじゃい。このヘタレ! 晩飯出来てんぞ。おこ。さらに激おこプンプン』
「妹さん?」
静さんの不機嫌が声と表情から読み取れる。ある意味、とても分かりやすい人なのだ。
「相当怒っているみたいだ。本当にもう帰らないと……」
「残念だわ。でも、今日は楽しかった。ありがとう」
「コーヒー、ご馳走さま」
「またいつでも遊びに来て」
「……それじゃ」
鞄を持って靴を履く。
外へ出ると、いつの間にか雨は止んでいた。
切れ切れになった雲が、夜の空を泳いでいく。
大気の塵が流されて、月がいっそう輝いて浮かんでいる。
月の銀を見つめながら、静さんが兎月を呼び止めた。
「これから先、どんな女が兎月の前に現れても、この世界で兎月のことを一番好きなのは私だからね」
兎月の困ったような、悩んでいるような顔が月の銀に照らし出されているのを見て、静さんは満足気に微笑むのだった。
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