第7話「鏡を作る私」

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第7話「鏡を作る私」

 まだ登校してくる生徒も(まば)らな早朝の学校で。  下校時間の迫った頃の、誰も知らない教室で。  村雨(むらさめ) 燈麻(とうま)舞泉(まいいずみ) 和華(わか)は静かなキスをする。  早朝と放課後。一日二回だけの、それ以上も無ければ以下も無い。  二人が付き合い始めてから暗黙の了解としてある。  一日に二回だけの、絶対的なキス。  それは二人だけの高尚な行為として存在していた。  二人が付き合っていることは二人だけの秘密だ。  周囲を(あざむ)いて育てる関係。  提案したのは燈麻だが、和華も満更(まんざら)ではなかった。  特別な関係だからこそ、他の誰にも知られたくない。  だから燈麻はたまに女の子から告白されることもあった。演劇部の花形は、やはりモテる。  しかし、燈麻はどんなタイプの女の子から告白されても和華を裏切るような選択はしなかったし、そんな燈麻の誠実さが和華は好きだった。  二人の関係は決して派手なものではない。  互いに好きな本の貸し借りをしたり、たまに学校をサボッて二人でマイナーな映画を観たりする。  休日デートも、メールのやり取りも無い。  廊下ですれ違っても他人のフリ。  そんな関係を二人は続けている。   「どうして人はキスを求めるのだと思う?」  人気の無い階段の踊り場で、朝のキスを終えた後に燈麻がそんなことを聞いた。  意志の強そうな太い眉の下の黒い瞳が和華に答えを催促している。 「え……その人が好きだから?」 「そんなのはまやかし(・・・・)だよ。多分、キスという行為は、人が人らしく生きるために必要なものなんだ」  そうかもしれないと思った。  燈麻が言うのなら、それはそうなのだろうと思った。  燈麻と一緒にいると和華の鼓動は加速してゆく。  その振動で心が石みたいに硬くならない。  それはきっと、人が人らしくあるために必要なものなのだと思った。 「君が僕のことを好きになってくれて、初めて僕は君のことを好きになる資格を持つ」 「…………」 「なんだか意味ありげだろ? 兎月(とげつ)がある英文をこんなふうに訳したんだ」 「ふーん……」 「アイツ、夜須女(やすめ) (しおり)と付き合ってるんだ」 「本当に?」  夜須女 静と一緒のクラスになったこともなければ、話したことも無い和華ではあったが、彼女の名前と顔は知っている。  校内でも有名な人嫌いの美少女。  前に廊下ですれ違ったときに、綺麗だけれど人形のような無機質な印象を和華に残していった。 「寡黙な美少女を、彼は果たしてどんなふうに口説いたんだろうね」  良く通る低い声には羨望の響きが含まれていたかもしれない。  二年生になって燈麻が夜須女 静と同じクラスになってから、彼女の名前がよく口に乗るようになった。  和華にとっては、夜須女 静も兎月も別にどうでもよいことだ。  そんなことより、もっと自分たち二人についての話がしたい。  他の誰かではなく……。 「あ、これ。ありがとう」  和華が燈麻から借りていた文庫本を返す。 「どうだった?」 「良かったよ。不思議な感じのお話だね」 「遠くの記憶が視えた?」 「うん。視えた視えた」  そんなふうに、二人は笑顔を交わす。  燈麻は和華の知らない世界を教えてくれる。  だから和華はもっと燈麻のことを理解したいと思うのだった。  お互いが相手の教室へ行くのは余程の用件が無い限り、控えることになっている。  先日、教室へ入ってしまったのは和華の浅慮(せんりょ)だった。後に燈麻から注意されてしまったのだ。  失楽園が台無しだと。  その意味は和華には分からなかったが、燈麻が言うなら何か大切な意味を持つのだと思って反省した。  だから和華はどうしても燈麻の顔が見たくなると、教室まで行って物影からコッソリと彼を覗くのだった。  こんな時、もう少し自分たちの関係をオープンにしたいと思う。  クセッ毛。意志の強そうな太い眉。着痩せする彼の、実は筋肉質な身体。  そして優しげな瞳の視線の行き着く先には、夜須女 静という唯一無二の個性。 「………………」  和華は驚かない。  当たり前の、いつもの光景だ。  男子なら誰だって美少女が同じクラスに居れば見入ってしまうことだってある。  最初はそう思っていた。不可抗力みたいなものなのだと。  でも和華は知っている。  燈麻がいつも夜須女 静を見ていることを。  彼の心の中には彼女の居場所が存在することを。  昼休みになっても燈麻と和華が一緒にお弁当を広げることはない。  校内の人目がある場所では、二人はいつも他人同士なのだ。  卒業するまでに一度で良い。学校内で一緒にお弁当を食べることが、和華のささやかな望みになった。  いつの日か、自分の作ってきたお弁当を二人並んで笑顔で食べる。  他愛ないお喋りとやり取り、感情の交換。  そんな日がいつか来ることを、来ないだろうと思いながらも思い描いている。  和華は自分で作った小さなお弁当を食べ終わると、いそいそと音楽室へと向かう。  そして音楽室の前まで来ると、中には入らずに扉の前の廊下まで聴こえてくるピアノの音に耳を傾ける。  扉の向こうでピアノを弾いているのは兎月だ。  曲名は分からないけれど、メロディーの綺麗な曲が和華の心に優しい雨のように柔らかく染み込んでいく。  野々宮(ののみや) 兎月(とげつ)。一年生のときのクラスメイト。  燈麻の友人だというけれど、和華は二人の友人らしいコミュニケーションを見た記憶が無い。  燈麻が一方的に兎月に構っているという印象だ。  本当に友人なのだろうか? そんな思いすら浮かぶ。  三人で同じく入部した演劇部も、彼だけが何も言わずにすぐ辞めた。  愛想は良いけれど、何を考えているのか分からない。  そんな得体の知れなさを感じて、和華は兎月のことが苦手だった。  音楽室から教室へ戻る途中で、プリント用紙を抱えて運ぶ野々宮(ののみや) 現子(うつつこ)の姿を()の当たりにして和華は焦る。  次の授業で使うプリントを用意するのは、委員長である彼女の役目だった。 「ごめんなさい。野々宮さん、私が運ぶから」  慌てて駆け寄り、謝る。 「いいよ。私、今日は日直だし気にしないで」  そういうわけにもいかない。委員長としての責任というものがある。  それでも現子が頑なにプリントを渡さないので、二人で半分ずつ持つことになった。 「兎月くん。夜須女さんと付き合ってるんだって?」 「あはは。無い無い。あんなヘタレに、彼女なんか出来っこないって」  現子と和華は同じクラスだ。特別親しいというわけではなかったが、何気ない会話くらいはする。  廊下の向こうから、優雅な歩調で一人の美少女がやってくるのが見えた。  前髪を切り揃えた長く艶やかな黒髪。人形のように整った顔立ち。白い肌。 「げ! 夜須女 静!」  現子が相手に聞こえるように声を上げるが、静さんはまったく気にしていない様子で足を止めた。 「こんにちは、妹さん。それと……」  和華のほうを見て目を細める。笑っているようにも見えるが、もちろんそんなことはない。 「あ、舞泉です」  学年は同じであるのに、和華は静さんに対してペコリと頭を下げた。  実際に近くで見ると本当に美人だと思う。形容しがたい迫力も感じる。 「舞泉……なに? 下の名前……」 「和華です。舞泉(まいいずみ) 和華(わか)……」 「そう……。あなたの名前なんて別に知りたくもないのだけど、兎月があなたのこと好きみたいだから……」  現子が持っていたプリントを落とす。紙の束が水面に揺れる波紋のようにリノリウムの床へと広がってゆく。 「いい加減なこと言わないでよ。好きな人っていうのは、あなたと付き合いたくないから便宜上言ったものであって、兎月に好きな人とか――」 「それなら良かったんだけれど、本当にいたのよ。兎月の好きな人」  静さんが不機嫌そうに和華を指差す。 「これは事実なのよ妹さん。事実はしっかりと受け止めて、対策を考えたほうが建設的だと思わない?」  現子は眼鏡の奥の大きな瞳をシバシバさせると、少しだけ和華のほうを見た。  そして彼女の弁明も聞かずに、「ご飯に毒を盛ってやるー!」と物騒なことを口にして何処かへと走り去ってしまった。 「野々宮さん……このプリント、私が全部拾うの?」 「とーふメンタル……」  静さんがクスクスと現子を揶揄(やゆ)する。 「まぁ、妹さんがいないほうが話が早く済みそうだから、いっか」 「あの……。夜須女さんは兎月くんと付き合っているんですよね?」  和華にはまったく話が見えない状況である。  夜須女 静が話している内容も、現子が走り去った理由も、彼女には疑問符だらけだ。 「………………」  静さんは、和華が兎月のことを「兎月くん」と呼ぶのが気に入らなかった。 「兎月くんが私のこと好きとか、知らないし……」  普通に可愛い女の子を演出する髪型も、フルリムの眼鏡も、その奥の小動物のような瞳も、鼻も口も、喉から出てくる幼さの残る声も、和華のすべてが気に入らない。 「……兎月のことを振って欲しいのよ」  和華は現子が廊下にバラ撒いた用紙を一枚一枚拾い始めた。 「聞いてる? マイタケさん」 「舞泉です。けど、告白されてもいないのに、いきなり振るとか変じゃないですか」 「それじゃ、あなたから告白して三日くらい付き合ってから、一方的に別れるというのは?」 「無茶苦茶です。兎月くん、キズついちゃいますよ。私もそんなのやりたくないし……」  現子と違って、和華は静さんの言うことを真に受けていない。 「その辺は心配しなくてもいいわ。私が傷心の兎月を優しく慰めることになっているから」  目の前でプリントを拾い集める和華を見ても、静さんは手伝おうともしないでただ見ているだけだ。 「あなただって好きでもない人に想われるとか、ウザイって思うでしょ?」  和華はやっとプリントを拾い集めた。中には皺や折り目が付いてしまっているものもあった。 「それに兎月は、アナタになんとも思われていないことを知ってもいるし……」  和華には静さんの言っていることがよく理解できない。   兎月が自分のことを好きとか、兎月のことを振れとか、そもそも夜須女 静と兎月は付き合っているのではなかったのか。 「どのみち兎月の想いが報われる日は永遠にないのだから、未練を断ち切ってあげたほうが兎月のためでもあるわ」 「村雨 燈麻って知っていますか?」  ドサクサに紛れて聞いてみた。 「誰? それ……」  始業ベルが校内に鳴り響く。 「このことは放課後に改めて話し合いましょう。屋上で待っているから」  何か薄暗いものを和華に残して、静さんは去っていった。  「行きたくないなぁ」と、和華が困るのも仕方が無いですよ。静さん。
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