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以前譲は、金子充にぶつかって、押し倒してしまったことがある。智史とふざけ合って、よそ見をしていたからだ。充は頭が良く、プライドが高い。でも、クラスで一番小柄。それが充のコンプレックスだった。その充に、譲はヘラヘラ笑いながら『おまえ、チビだから見えなかったよ!』と、軽口をたたいたのだ。
智史は、思わず息を飲んだ。金子充に『チビ!』と言って、ひっくり返るほどの痛みに襲われたことを思い出したのだ。
恐る恐る譲の表情をうかがったが、相変わらずヘラヘラと笑ったままだ。放課後、こっそり胸の痛みについて聞いてみた。
「よく我慢できたな……。充に『チビ!』って言うと、めちゃくちゃ痛いだろ?」
「何が?」
譲が怪訝そうな顔をしている。
「何って、胸の痛みのことだよ!」
「誰の?」
かみ合わない会話が続き、痛むのは智史の特別な体質だと分かったとき、譲は腹を抱えて笑っていた。
「言葉通りかよ!」
当たり前だと思っていたことが、自分特有の体質だったのだ。すごく恥ずかしいことのように思え、譲にしっかりと口止めしていた。
「いま、傷つくのはズルいよ……」
智史は心臓を右手で押さえながら、うめき声をあげた。
「ごめん……。どうしても言うことができなかった……」
「ともかく許すから、傷つくのをやめてくれ!」
「本当に許してくれるの?」
譲は智史の顔をのぞき込んできた。白目をむいて、鼻の穴を大きくふくらませている。その顔を見て、智史は思わず吹き出してしまった。今度は腹が痛くなる番だ。2人のケンカは、いつもこんなふうに笑って終わる。
一きわ強い海からの噴き上がりが、再びシュロの木を揺らした。2人は、落ちてくるシュロの葉を、卒業証書の筒で振り払いながら、跳びはねるように立ち上がった。
海風にあおられたトビが2羽、空の高いところを旋回している。波間に漂っている海鳥が、不安そうにその姿を見上げていた。
「香取を頼むな……」
譲の口から、意外な名前が出た。
「なんで香取を頼むんだよ……」
2人は再び、岩に腰を下ろした。
香取ゆうこは譲の幼馴染だ。ボサボサ髪に、度の強いメガネをかけている。口数が少ない文学少女で、教室の片隅で、いつも本を読んでいた。
「読書家だし、作文がうまいのは知ってるよ。でも、なんで?」
譲は、ニヤニヤ笑っている。
「あいつ、ナイーブだから……」
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