陽炎

2/8
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
八月一日(月)  夏休みという概念は、大学に入った途端その輪郭をぼやけさせる。始まりも曖昧なら、終わりも曖昧。夏休みが始まった、と友人が浮かれていたのはもう一週間も前のことになった。一方俺はといえば、たった今五限の最終試験を終えたところだ。つまるところ、俺の夏休みは「たった今」始まった、と言っていい。  というのに、窓の外は冬並みの暗さ、おまけに台風レベルの豪雨ときた。  窓ガラスに当たる雨粒は過度な音を立てて、叩き割らんばかりに世の中を揺さぶる。脳みそに詰め込んだばかりの古代ギリシャ語だのラテン語だのの用語が、ぐしゃぐしゃにシェイクされて耳穴から溢れ出していく感覚。口や鼻から出ないだけ、まだマシか。とはいえ、もういい加減人の少なくなった学部棟を歩く分には、耳から何が出ようがどんな阿呆な面をしていようが関係ない。出ていくものを出しっぱなしにして、俺は家路を急いだ。装備がビニール傘一本というのはやや心もとないが、とにかくそれでこの豪雨を凌ぐしかない。憂鬱すぎて口から脳みそが出そうだ。  エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押し込む。ご丁寧な音声の後、雨音の代わりに機械音が、より細かな振動で俺の脳みそを揺さぶりだした。目玉の間が痒くなるような感覚。挙句の果てにはチーンと、電子レンジのような音を立てて止まる。恐ろしい。何も考えていない音だ。俺だって出来ることならそうして何も考えずに生きたい。事あるごとにチーンと音を立てて再起動したい。どこぞのソフトウェアみたいに恐ろしく長い時間をかけて更新プログラムを準備したい。将来の夢リストに入れておこう。  エレベーターを降りて一歩踏み出した途端、鳩尾に長方形の衝撃が走った。  ぐへぁ、と恐ろしく間抜けな声が半開きの口から飛び出していき、盛大に尻餅をついた視界の片隅でエレベーターがご丁寧に挨拶する。吹っ飛んだビニール傘が黒いパンプスの隣に落ちた。女性にぶつかったらしい。すいません、大丈夫ですか、と慌てたような声が降ってくる。視線を上げた。が、恐ろしいまでの逆光だ。相手の後頭部から蛍光灯が生えているように見える。いや、だがしかし、蛍光灯などどうでもいい。一体何を見ているんだ俺は。そこにいたのは、俺に向かって手を差し出しているその姿は。  いえ、と答えた声が盛大に裏返って、ひええ、と聞こえた。俺は一瞬で悟った。  これは、一目惚れという奴だ。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!