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 男が二人、盤をはさんで対峙している。老人は少考し、ビショップをつまみ上げた。そっとキングの前に置く。苦戦しているのは顔色から明らかにわかった。  かつての日本でもそうだったように、東欧では縁台将棋ならぬ、縁台チェスに興じる人々の姿をみかけることが珍しくない。ウクライナのリヴィウ、セルビアのベオグラードなど、この旅で訪れた街でも僕はそのような光景を目にしてきた。 ただ、ここが一風変わっているのは温泉施設の中だということだ。ブダペストの中心部に位置する公園の一角にあるこの温泉の屋外プールは、地元の老若男女で朝早くから賑わっていた。プールの端にはチェス盤と駒が用意されていて、利用者が自由に対戦できるようになっている。  相手はアジア系の若者だった。ナイトを左前方へ跳ねてまたチェック。老人は長考に入る。僕はプールの中を歩いて老人の背後に回ってみた。若者がどんな男なのか気になったのだ。  老人が苦悶の表情を浮かべている間も、男は二度、三度うなずき、読みを入れている。年は三十前の僕と同じぐらいだろうか。近くで幼い男の子が大声をあげたとき、その若者は顔を上げ、一瞬そちらを見遣るが、また視線は盤面へと戻った。  わずか数秒に過ぎなかったが、その顔をとらえた瞬間、男を昔、どこかで見た気がした。 「まさか、あいつか?」 
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